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カテキズム 「結婚の秘蹟」

これまで、一ヶ月以上にわたって、アルゼンチン民法の婚姻に関する条項を、一条ずつ確認して来ました。

皆さんの中には、これらアルゼンチン民法の条項から考えられる、法制度自体にあるキリスト教的ルーツの可能性についての非常に興味深いコメントをよせて頂いた方もいて、大変嬉しく思いました。なぜなら、お気づきの通りアルゼンチンの民法には、スペイン民法と同様に、ローマ法に直接的に根付いた土台も確かにありますが、同時に、教会法やこれらの国の国民性ともいうべきキリスト教からの明らかな歴史的影響もあると言えるからです。

そこで、次回のテレビ会議では、民法の研究を一時的に休憩して頂くためにも、次回は専らキリスト教的概念としての婚姻をとりあげて、全員でこの興味深いテーマを模索出来ればと思っています。

本日はカトリック教会のカテキズムの結婚の秘蹟の部分を対訳形式でアップしておりますので、これをもとに次回のテレビ会議を準備して頂ければと思います。なお、ワークショップにおいては、婚姻に関する社会的・歴史的・文化的な側面等についても、皆さんからの多様なコメントを期待しています。訳文については、原文にあわせるための表示方法を変えた程度で、大きな変更は加えていません。今後の臨時クラスや通訳・翻訳ワークショップのなかで、当方がどようにこの文書を校正・添削するのかを随時説明していくことになりますが、まずは自分でやってみてください。

カトリック教会のカテキズム

第2編: キリスト教の神秘を祝う

第2部: 教会の七つの秘蹟

第3章: 交わりをはぐくむための秘蹟

第7項: 結婚の秘蹟

1601
「男女が相互に全生涯にわたる生活共同体を作るために行う婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産および教育に向けられています。受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって秘跡の尊厳にまで高められました」(「新教会法典」第1055条第1項)。

1. 神の計画における結婚

1602
聖書は神に似せて造られた男と女の創造の話で始まり(創世記1・26-27参照)、「小羊の婚宴」(黙示録19∙9)(黙示録19・7参照)の話で終わります。そして、聖書の初めから終わりまで、結婚とその神秘、その制定と神がその結婚に与えられた意義、その起源と目的、救いの歴史の流れの中で成就されていくその多様な姿、罪ゆえに生じたその困難さ、キリストと教会との新しい契約の中で「主に結ばれている」(一コリント7∙39)者との再婚などについて語っています(エフェソ5・31-32参照)。

創造の秩序における結婚

1603
「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられました。……神ご自身が婚姻の創設者です」(『現代世界憲章』48)。結婚への召し出しは、創造主によって造られた男女の本性に刻み込まれています。結婚は、時の流れとともにさまざまな文化、社会構造や考え方などに応じていろいろと変化しましたが、人間が作り出した制度ではありません。多様性を認めたとしても、そこにある共通で恒久的な特徴を見落としてはなりません。結婚の崇高さについては世界のあらゆるところで同じような鮮明さで表されているわけではありませんが(『現代世界憲章』47参照)、すべての文化は結婚の結びの偉大さを認めています。「個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれています」(『現代世界憲章』47)。

1604
愛によって人間をお造りになられた神は人間を愛へとお招きになられましたが、これはすべての人間に内在する根本的な召し出しです。人間は「愛である」(一ヨハネ4∙8,16参照)神にかたどり、神に似せて造られたからです(創世記1・27参照)。神が人間を男と女とに造られたので、男女の相互愛は、人間を愛される神の絶対で不滅の愛を映し出すものとなります。この相互愛は創造主の目にはよいもの、きわめてよいものなのです(創世記1・31参照)。神によって祝福されたこの愛は、子供を産み、被造界を維持する共同の働きを行うことを目指しています。「神は彼らを祝福していわれた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」(創世記1∙28)。

1605
聖書が明言するとおり、男と女は相互のために造られています。「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2∙18)。女は男にとって「その肉の肉」(創世記2・23参照)、すなわち、同等の人、もっとも近い者であって、わたしたちの助けの源である神(詩篇121・2参照)を表す「助ける者」(創世記2・18参照)として、神から与えられているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2∙24)。これは男女二人の生活の永続的な結合を意味していることをキリスト自らが示され、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタィ19∙6)ということばで、創造主の「初めから」の計画(マタイ19・4参照)を想起させておられます。

罪に支配された世界での結婚

1606
すべての人は自分の周囲や自分のうちに悪を体験します。この体験はまた、男と女との間でも見られます。男女の結合はつねに、不和、支配欲、不忠実、しっと、憎悪や断絶に終わる衝突などの危険にさらされています。この無秩序は、大きさには多少の相違が見られたり、それぞれの文化、時代、個人などの努力による多少の解決がなされたりしているとはいえ、いつどこででも起こっている問題です。

1607
わたしたちが経験し、苦しんでいるこの無秩序は、キリスト教信仰によれば、男と女の本性や、両者の関係に由来するのではなく、罪の結果なのです。神との断絶をもたらした人祖の最初の罪の結果は、男と女との原初の交わりを破壊しました。男女の関係は相互の責任のなすり合いでゆがめられ(創世記3・12参照)、本来は創造主のたまものである相互間のあこがれは(創世記2・22参照)支配と欲望の関係へと変わってしまいました(創世記3・16参照)。産み、増え、地を従わせる男女の優れた召し出しは(創世記1・28参照)、産みの苦しみと糧を得る労苦を背負うものになりました(創世記3・16-19参照)。

1608
こうして創造の秩序は甚だしく乱されたとはいえ、存在し続けています。男と女は罪による損傷をいやすために恵みの助けを必要とし、神はその限りない慈悲により、決してこれを拒むことはありませんでした(創世記3・21参照)神のこの助けなしには、男と女は神が創造によって定められた「初めから」の目的に沿って自分たちの結合を果たすことはできません。

旧約の律法のもとでの結婚

1609
あわれみ深い神は、罪びとである人間をお見捨てにはなられませんでした。罪の結果としての罰、すなわち、はらみの苦しみ(創世記3・16参照)と「顔に汗を流す」(創世記3∙19)労働はまた、罪の害を抑制する薬でもあります。原罪の後では、結婚が、自己閉鎖や自己愛に基づく「利己主義」、自己の快楽の追求などに打ちかち、他者に心を開いて相互扶助と自己献身の態度を取ることができるよう助けてくれます。

1610
結婚の一夫一婦制と不解消性とに関する道偲的意識は、旧約の律法の導きのもとでしだいに発展してきました。太祖や王たちの一夫多妻については、まだ明白には禁じられていません。しかし、モーセに与えられた律法は、キリストのことばによればモーセが妻の離縁をゆるす理由とした男の「心のかたくなさ」の跡は見られるようですが(マタイ19・8、申命記24・1参照)、男によるわがままな支配から女を保護することを目指したものです。

1611
預言者たちはイスラエル民族と神との契約を二人だけの忠実な夫婦愛にたとえ(ホセア1〜3章、イザヤ54、62章、エレミヤ2〜3、31章、エゼキエル16、23章参照)、選ばれた民の良心を培い、結婚の一夫一婦制と不解消性とのより深い理解へと導いていきました(マラキ2・13-17参照)。ルツ記とトビト記は結婚について、とくに夫婦の忠実さと愛情についての優れた見方を示しています。伝承はつねに、雅歌の特異な表現の中に、神の愛の反映としての人間愛、「死のように強く」、「大水も消すこと〔の〕できない」(雅歌8∙6-7)愛を読み取っています。

主キリストにおける結婚

1612
神とその民イスラエルとの間の結婚の契約は、新しい永遠の契約を準備しました。この新しい契約の中で神の御子は人となり、自らのいのちをささげ、ご自分によって救われた全人類とある意味で一致し(『現代世界憲章』22参照)、こうして、「小羊の婚礼」を準備なさいました(黙示録19・7,9参照)。

1613
イエスは宣教生活の初め、ある婚礼の機会に、ご自分の母親の願いに応じて最初のしるしを行われました(ヨハネ2・1-11参照)。教会は、カナの婚宴にイエスが臨席されたことを重視します。教会は、ここで結婚がよいものであることが確認され、これからは結婚がキリストの現存の効果的しるしとなることが宣言された、と読み取っています。

1614
イエスは、創造主が当初に望まれた男女の結合の本来の意味を明確に教えられました。すなわち、モーセが妻を離縁する許可を与えたのは、人間の心のかたくなさゆえの譲歩でした(マタイ19・8参照)。男女の結婚による結合は不解消です。それは神ご自身が夫婦を結び合わせられたからです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19∙6)。

1615
結婚のきずなの不解消性に関するイエスの断定的な強調は人々を困惑させ、実行不可能な要求と受け取られる可能性がありましだ(マタイ19・10参照)。しかし、イエスは夫婦に担うことのできない重荷、モーセの律法よりも重い荷を負わせられたのではありません(マタイ11・29-30参照)。イエスは罪によって乱された創造の原初の秩序を回復するために来られ、神の国の新しい展望の中で結婚生活を生きるための力と恵みを自らお与えになります。夫婦はキリストの後に従い、自分を捨て、自分の十字架を背負ってこそ(マルコ8・34参照)、はじめて結婚の奏来の意味を「受け入れ」(マタイ19・11参照)、キリストに助けられながらその教えに基づいて生活することができるのです。キリスト者の結婚の恵みは、すべてのキリスト教的生活の源であるキリストの十字架の実りなのです。

1616
使徒パウロはこのことを理解させようとして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになって、聖なるものとなさったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5∙25-26参照)と述べ、さらに付け加えて、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙31-32)と語っています。

1617
キリスト教的生活全体に、キリストと教会との夫婦愛のしるしが刻まれています。神の民の一員とする洗礼は、すでに結婚の神秘です。すなわち、洗礼は結婚式の前の水の洗いであり(エフェソ5・26-27参照)、その後にエウカリスチアという婚宴が続きます。キリスト者の結婚はキリストと教会との契約の秘跡、その効果的なしるしなのです。受洗者同士の結婚は新約の恵みを示し、与えるので、新約の真の秘跡です(トリエント公会議第24総会『結婚の秘蹟について』DS1800、「新教会法典」第1055条第1項参照)。

神の国のための独身

1618
キリストはキリスト教的生活全体の中心です。キリストとのきずなが、家族、社会、他のすべてのきずなに優先します(ルカ14・26、マルコ10・28-31参照)教会の当初から、結婚の幸せを放棄した男女が存在していました。それは、小羊が行かれるところにはどこにでもついて行き(黙示録14・4参照)、主のことに心を遣い、主に喜ばれることを求め(1コリント7・32参照)、おいでになる花婿を迎えに出る(マタイ25・6参照)ためです。キリスト自ら、このような生き方をしてご自分に従うようにとある人々を招かれました。キリストこそ、この生き方の模範です。

「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19∙12)。

1619
天の国のための独身は、洗礼の恵みの発露、キリストとのきずなの卓越性とその再臨の熱烈な待望との優れたしるしであり、さらに、結婚が過ぎ行く現世のことがらであることを思い起こさせるしるし(マルコ12・25、1コリント7・31参照)でもあります。

1620
結婚の秘跡も神の国のための独身も、キリストご自身に由来するものです。キリストが、この双方に意味を与え、み旨に従って生きるために必要な恵みを与えられます(マタイ19・3-12参照)。神の国のための独身の価値(『教会憲章』42、第2バチカン公会議『修道生活の刷新・適応に関する教令』12、『司祭の養成に関する教令』10参照)と結婚のキリスト教的意義とは、切り離すことのできない、互いに補い合うものです。

「結婚を誹諦、中傷する者はだれでも、純潔の輝きを曇らせてしまいます。それをたたえる者はだれでも、純潔をより称賛に値する輝かしいものとします。悪と比較してのみ善に見えるものは、特別に善とはいえません。善であると認められるものよりもさらによいもの、それが最高の善です」(聖ヨハネ・クリゾストモ『処女性について』10,1; SC125, 122[PG48, 540]、ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭-愛といのちのきずな』16. AAS74[1982]98参照)。

2. 結婚式

1621
ラテン典礼では、二人のカトリック信者間の結婚式は、すべての秘跡がキリストの過越の神秘と関連していることから、普通、ミサの中で行われます(『典礼憲章』61参照)聖体祭儀では新しい契約の記念が行われますが、愛する花嫁である教会のためにご自分をお与えになったキリストは、この契約において、教会と永遠に結ばれたのです(『教会憲章』6参照)したがって、新郎新婦が自分たちの生活を奉献して相互に与え合うという同意を、エウカリスチアのいけにえにおいて現在化される教会のためのキリストの自己奉献に一致させ、聖体を拝領するのはきわめて適切なことです。それは二人がキリストの同じからだと同じ血をいただき、キリストにおいて「ただ一つのからだ」となるためです(1コリント10・17参照)。

1622
「聖化の秘跡として、結婚式は……式自体が有効でふさわしく実り豊かなものでなければなりません」(ヨハネ・パウロ2世『家庭』67, loc. Cit. 162)したがって、結婚する二人がゆるしの秘跡を受けて結婚式に備えるのはふさわしいことです。

1623
ラテン教会の伝統では、新郎新婦が教会の前でそれぞれの同意を表すことにより、キリストの恵みの役務者として互いに結婚の秘跡を授け合います。東方教会の伝統では、祭司(主教または司祭)は新郎新婦によって相互に表明される同意の証人となります(「東方教会法典」第817条参照)が、秘跡の有効性のためにはその祭司の祝福も必要となります(「東方教会法典」第828条参照)。

1624
さまざまな典礼様式における祝福の祈りや聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)の種類は豊富ですが、それは新郎新婦、とくに新婦の上に神の恵みと祝福とを願うものです。この秘跡のエピクレシスで、新郎新婦はキリストと教会との愛の交わりである聖霊をいただきます(エフェソ5・32参照)。聖霊こそ二人の契約の刻印であり、二人の愛の尽きない泉であり、二人の忠実を更新させる力なのです。

3. 結婚の同意

1625
結婚の誓約の当事者は、洗礼を受けた一人の男性と一人の女性で、自由に結婚することができ、自由意志をもって同意を表す者たちです。「自由に結婚することができる」とは次のことを意味します。
– 強制されていないこと。
– 自然法、あるいは教会法上の結婚の障害がないこと。

1626
教会は新郎新婦間の同意の交換を、「結婚を成立させる」不可欠な要素とみなしています(「新教会法典」第1057条第1項参照)。同意がなければ結婚は成立しません。

1627
同意とは、「配偶者が互いに自分を与えそして受ける人間行為」(『現代世界憲章』48、「新教会法典」第1057条第2項参照)のうちに成立するものであり、それは、「わたしはあなたを妻とします」「わたしはあなたを夫とします」(『結婚式 規範版 第2版』62[TPV 1991] 17)ということばで表されます。新郎新婦を互いに結び合わせるこの同意は、二人が「一体」となる(創世記2・24、マルコ10・8、エフェソ5・31参照)ことで完成します。

1628
同意は、暴力または外部からの強度の恐怖によって束縛されていない当人各自の意志行為でなければなりません(「新教会法典」第1103条参照)。いかなる人間の権力も、この同意に取って代わることはできません(「新教会法典」第1057条第1項参照)もしもこの同意が自由意志で行われたものでないとすれば、結婚は無効です。

1629
このような理由、あるいは結婚を無効とする他の理由(「新教会法典」第1083〜1108条参照)があれば、教会は、管轄の教会裁判所によって状況を調査した後、「結婚の無効」、すなわち、結婚が成立していなかったということを宣言することができます。この場合、当の二人は自由に他の人と結婚することができます。ただし、以前の結合によって生じた自然的な義務は果たさなければなりません(「新教会法典」第1071条第1項第3号参照)。

1630
結婚式に立ち会う司教や司祭(または助祭)は教会の代表者として二人の同意を受け止め、教会の祝福を与えます。教会の役務者(および証人たち)の臨席は、結婚が教会的出来事であることを明らかにするものです。

1631
そのために教会は、通常、信者が教会の儀式に従って挙式するように命じています(トリエント公会議第24総会『婚姻法改定についての教令』DS 1813-1816、「新教会法典」第1108条参照)。このような規定が定められていることには、いろいろな理由があります。
– 秘跡的結婚は典礼行為です。ですから、結婚は教会の公の典礼の中で行われるのがふさわしいのです。
– 結婚は人を教会での一定の身分に加入させ、教会における夫婦間の権利と義務、ならびに子供に対する権利と義務とを授けます。
– 結婚は教会の中での生活様式の一つですから、結婚についての確証がなければなりません(そのために、証人の立ち会いが義務づけられます)。
– 同意を公に表すことによって、そのときの同意が支えられ、それを忠実に守るように助けられます。

1632
新郎新婦の同意が自由で責任あるものとなるため、また、結婚の契約が人間としてまたキリスト者としての堅固で永続的な土台の上に立つためには、結婚の準備がきわめて重要です。

両親や家族の模範と教訓とがこの準備のための最良の方法であることに変わりはありません。
結婚や家庭の人間的およびキリスト教的価値を伝達するためには、司牧者と「神の家族」であるキリスト者共同体の役割が不可欠です(「新教会法典」第1063条参照)現代では多くの若者が亀裂した家庭を経験して毒り、家庭以外では結婚や家庭についての基本的教えを十分に受けられない状況であるだけに、その役割はいっそう重要です。

「若い人たちに対しては、とくに家庭において、夫婦愛の品位、任務、行為について時機をはかって適切に教えなければなりません。こうして、彼らは貞潔についての教育を受けた後、時が来れば清い婚約時代を経て結婚に移ることができます」(『現代世界憲章』49)。

混宗結婚と異宗結婚

1633
多くの国では、混宗結婚(カトリック信者と非カトリック受洗者間の結婚)が、かなり頻繁に行われています。これには、配偶者ならびに司牧者の特別な心配りが必要です。異宗結婚(カトリック信者と非キリスト者間の結婚)の場合は、いっそうの慎重さが求められます。

1634
配偶者のキリスト教宗派の違いは、結婚にとって克服できない障害ではありません。それは、二人がそれぞれの教会で受けたものを共有し、お互いがキリストにどのように忠実に生きるかを学ぶことに成功する場合にいえることです。ただし、混宗結婚の難しさを過小評価してはなりません。それは、キリスト者間の分離がまだ解決されていない事実によるものです。配偶者は家庭内で、キリスト者間の不一致の悲劇に出合いかねません。異宗結婚には、この困難をさらに深刻なものにする可能性が秘められています。信仰に限らず、結婚そのものについての考えの相違、それに宗教的考えの違いが、結婚生活の中で、とくに子供の教育に関して、衝突の原因になりえます。こうした場合には、宗教的無関心の誘惑が待ち構えています。

1635
ラテン教会の現行法では、混宗結婚が合法となるためには教会権威者の明示的許可を必要とします(「新教会法典」第1124条参照)。異宗結婚の場合には、結婚が有効となるために障害の明示的免除が必要とされます(「新教会法典」第1086条参照)この許可もしくは免除が与えられるための条件は、両者が結婚の本質的目的と特性とを知り、それを拒否しないこと、さらにまたカトリック者が、自分には自分の信仰を保持しカトリック教会での子供の洗礼と教育を保証する義務があり、そのことを非カトリック者側にも知らせる必要があるということを確認することです(「新教会法典」第1125条参照)。

1636
多くの国々では、教会一致運動における対話のおかげで、かかわりのあるキリスト教諸派は混宗結婚者のための共同司牧を発足させました。その任務は、このような夫婦が自分たちの特殊な境遇を信仰の光に照らして生きるよう助けることにあります。さらにその活動は、互いに対する配偶者の義務に関して、また各自の所属教会に対する義務に関して起こりうる緊張を克服するように助け、信仰に共通なものを成熟させ、異なる面を尊重し合うように励ますことも目的としています。

1637
異宗結婚におけるカトリック信者の配偶者は、特別な任務を持っています。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(一コリント7∙14)。もし、この「聖化」が配偶者の一方をキリスト教信仰への自由な回心に導くならば、キリスト者の配偶者にとっても教会にとっても、大きな喜びです(1コリント7・16参照)誠実な夫婦愛、家庭人としての諸徳のつっましく忍耐強い実践、たゆまぬ祈りなどを通して、信者でない配偶者を改宗の恵みにまで導くことができます。

4. 結婚の秘蹟の効果

1638
「有効な婚姻に基づいて、夫婦間にはその本性上永続的かつ排他的なきずなが生じます。さらにキリスト者同士の婚姻においては、夫婦はその身分に伴う義務および尊厳のゆえに、特別の秘跡によって強められ、いわば祝聖されます」(「新教会法典」第1134条)。

結婚のきずな

1639
新郎新婦が互いに与え受け入れ合う同意は、神ご自身によって押印されたものです(マルコ10・9参照)。二人の契約から、「神の制定による堅固な制度が社会の前にも生まれます」(『現代世界憲章』48)。夫婦の契約は神と人類との契約に組み入れられ、「真正な夫婦愛は神の愛の中に取り上げられます」(『現代世界憲章』48)。

1640
したがって、結婚のきずなは神によって結ばれたものであり、受洗者同士の完成の認証婚は決して解消できません。夫婦の自由な人間的行為と結婚の完成とによって生じるこのきずなは、取り消すことのできないもので、神の忠実さによって保証された契約の起源を明らかにするものです。教会には、神の英知によるこの決定に反することをいう権限はありません(「新教会法典」第1141条参照)。

結婚の秘蹟の恵み

1641
キリスト者の夫婦は、「結婚生活という身分と序列において、神の民の中で自分たちに固有のたまものを持っています」(『教会憲章』11)。この結婚の秘跡に固有な恵みは、配偶者の愛を完成し、解消できない結合を強めるものです。二人はこの恵みによって、「結婚生活および子女の出産と養育を通して聖となるよう互いに助け合います」(『教会憲章』11、41参照)。

1642
キリストがこの恵みの泉です。「かって神が愛と忠実の契約をもって、その民を助けたように、今は人々の救い主∙教会の夫は婚姻の秘跡をもってキリスト信者である配偶者を助けに来ます」(『現代世界憲章』48)。そしてキリストは、彼ら夫婦とともにとどまり、二人が自分の十字架を背負って後に従い、倒れたら立ち上がり、互いにゆるし合い、互いの重荷を担い合い(ガラテヤ6・2参照)、「キリストに対するおそれをもって、互いに仕え合い」(エフェソ5∙21)、超自然的で、繊細で、豊かに実を結ぶ愛で愛し合う力をお与えになります。キリストは、夫婦がすでにこの世にありながら、互いの愛と家族生活との喜びの中で小羊の婚礼を前もって味わえるようにしてくださいます。

「教会によってともに結ばれ、奉献によって強められ、祝福によって固められ、天使によって告げ知らされ、御父によって承認された結婚の幸せを、わたしはいったいどのように表すことができるでしょうか。……一つの希望、一つの願いと、一つの規律、一つの奉仕をともにする二人の信じる者のきずなは何とすばらしいことでしょうか。彼らはともに信仰の仲間であり、同じ主に仕える者同士です。心もからだも分かたれることはありません。事実、二人は一つのからだを持つ二人です。からだが一つであれば心もまた一つです」(テルトゥリアヌス『妻へ』2, 8, 6-7: CCL 1, 393[PL1, 1415-1416]、ヨハネ・パウロ2世『家庭』13 loc. cit. 94参照)。

5. 夫婦愛の善益と要求

1643
「夫婦愛は、肉体や本能の要求、感情や情緒的な力、精神や意志の向上など、人格のすべての要素を含む全体に及んでいるのです。それは一つのからだに結ばれることを超えて、一つの心、一つの魂を形づくっていく深い人格的な一致を目指しています。したがって夫婦愛は、決定的な相互の与え合いにおいて不解消性と忠実を求めます。それはまた生殖へと開かれているのです。一言でいえば、それらは自然な夫婦愛の典型的な特徴ですが、それを純化し強めるばかりでなくキリスト者固有の諸価値を表現するところまで高めていく新しい意義を持っています」(ヨハネ・パウロ2世『家庭』13 loc. cit. 96)。

夫婦の単一性と不解消性

1644
夫婦愛はその本性から、二人の生涯にわたる人格共同体の単一性と不解消性とを要求します。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19∙6)(創世記2・24参照)「全面的に自己を与え合うという結婚の約束を日々忠実に守りながら、彼らの交わりの中でたえず成長するように呼ばれています」(ヨハネ・パウロ2世『家庭』19 loc. cit. 101)。この人間的交わりは結婚の秘跡が与えるイエス・キリストにおける交わりによって強められ、純化、完成され、ともに営む信仰生活、ともに拝領する聖体によって深められていくのです。

1645
「相互の完全な愛の中に夫と妻とに平等に認めるべき人間(ペルソナ)の尊厳は、主によって確認された一夫一婦制を明らかにします」(『現代世界憲章』49)。一夫多妻はこの平等の尊厳と一夫一婦に限る夫婦愛とに反するものです(ヨハネ・パウロ2世『家庭』19 loc. cit. 102参照)。

夫婦愛の忠実

1646
夫婦愛は、その本性から夫婦に変わらぬ忠実さを要求します。それは、夫婦が相互に自分を与え合う結果として表れるものです。愛は決定的であるはずです。「とりあえず」ということはありえません。「この深い一致は、ふたりの人間(ペルソナ)が互いに与え合うということであって、子供の善と同様に、夫婦間の完全な忠実を要求し、また夫婦間の一致が不解消であることを求めます」(『現代世界憲章』48)。

1647
そのもっとも深い理由は、神がご自分の契約に対して忠実であられること、キリストがご自分の教会に対して忠実であられるということにあります。結婚の秘跡によって、夫婦はこの忠実さを映し出し、世に明らかにする資格を与えられます。秘跡によって、結婚の不解消性は新たなより深い意味を受けるのです。

1648
自分の一生を一人の人間に結びつけることは難しく、不可能のように思われるかもしれません。それだけに、神は決定的で取り消すことのできない愛でわたしたちを愛しておられ、夫婦は自分たちをはぐくみ支えるこの愛にあずかりながら自分たちの忠実を通して神の忠実な愛の証人となることができる、という福音を告げ知らせることがいっそう重要となります。しばしばきわめて困難な状況のうちにありながらも、神の恵みに助けられてこのあかしを行う夫婦は、教会共同体の感謝と支援とを受けるに値します(ヨハネ・パウロ2世『家庭』20 loc. cit. 104 参照)。

1649
しかし、種々さまざまな理由で、夫婦の同居が実際に不可能となることがあります。そのような場合には、教会は夫婦の別居を認めます。とはいえ、この夫婦は神の前には依然として夫と妻であり、別の人と結婚する自由はありません。このような困難な状態での最良の解決策は、その可能性があれば、和解することです。キリスト者の共同体はこの夫婦がこのような境遇をキリスト者らしく生き、不解消のままである結婚のきずなを忠実に守るよう助けなければなりません(ヨハネ・パウロ2世『家庭』83 loc.cit.184、「新教会法典」第1151〜1155条参照)。

1650
少なからぬ国々には、民法上の離婚に頼って、民法上の再婚を行うカトリック信者が数多くいます。教会は、イエス・キリストのことば(「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」[マルコ10∙11-12])に忠実に従い、最初の結婚が有効であれば再婚を有効とは認めません。離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することができません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。ゆるしの秘跡によってゆるしが与えられるのはただ、キリストとの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、まったくの禁欲生活を送る人々に対してのみです。

1651
このような境遇にいながらも、信仰を守り、子供たちをキリスト教的に育てることを望むキリスト者が多くいます。彼らに対して、司祭および信者全共同体は、彼らが自分は教会から離れた者だと思い込むことがないように、温かい配慮を示すべきです。そのような人々も洗礼を受けた者として教会生活にあずかることができるし、またあずからなければならないのです。

「彼らは教会生活にあずかりながら〔神のことばを聞き、ミサ聖祭にあずかり、〕忍耐をもって祈り続け、愛のわざや正義を求める共同体の努力に貢献したり子供をキリスト教の信仰のもとで教育して、回心の心と実践を身につけるよう努めながら、日々神の恵みを求めていくよう励まされてしかるべきなのです」(ヨハネ・パウロ2世『家庭』84 loc.cit. 185)。

子供の出産

1652
「婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子供の出産と教育とに向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものです」(『現代世界憲章』48)。

「子供は婚姻のもっとも貴重なたまものであり、両親自身の善のためにも大いに寄与します。『人がひとりでいるのはよくない』(創世記2∙18)といわれ、『初めから人間を男と女に浩られた』(マタイ19∙4)神自ら創造のわざに人間を参加させようと望み、『産めよ、増えよ』(創世記1∙28)といって、男と女を祝福されました。したがって、婚姻のその他の目的をないがしろにするわけではありませんが、真の夫婦愛の実行と、それに基づく家庭生活の全構造は、夫婦が勇気をもって創造主と救い主一すなわち、彼らを通して神の家族をふやし、富ませるかた一の愛に協力する心構えを持つようになることに向けられています」(『現代世界憲章』50)。

1653
夫婦の愛の実りは、両親が教育によって子供たちに伝える倫理的、精神的、超自然的生命の実りにまで及びます。両親は子供の最初の主要な教育者です(第2バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』3参照)。この意味で、結婚と家族との基本的任務はいのちに奉仕することなのです(ヨハネ・パウロ2世『家庭』28 loc.cit.114)。

1654
ところで、夫婦は神から子供を授からなくとも、人間としてまたキリスト者として、十分に意義ある夫婦生活を送ることができます。このような夫婦の結婚生活は、愛、受容、奉仕の実を結ぶ輝かしいものとなりえます。

6. 家庭教会

1655
キリストはヨセフとマリアとによって構成される聖家族の庇護の中で生まれ、育てられることを望まれました。教会は「神の家族」にほかなりません。当初から、教会の中核はしばしば、「一家をあげて」信者となった人々によって構成されていました(使徒言行録18・8参照)。彼らは信者になると、「一家こぞって」救われることを望みました(使徒言行録16・31、11・14参照)。信者となったこれらの家族が、不信仰者の間でのキリスト教生活の拠点であったのです。

1656
しばしば信仰とは無縁で敵意さえ持つ現代社会にあって、信者の家族は生き生きと輝く信仰の家庭としてきわめて重要なものです。このためにこそ、第2バチカン公会議は、昔のことばを用いて、家族を家庭教会と呼んでいます(『教会憲章』11、ヨハネ・パウロ2世『家庭』21 loc.cit. 105参照)。家族の庇護の中で、両親は「ことばと模範をもって子供たちのために信仰の最初の使者となり、子供のおのおのに特有な召命を育て、とりわけ聖職の召命を特別な配慮をもってはぐくむようにしなければなりません」(『教会憲章』11)。

1657
家庭は、父親、母親、子供、および家族全員が、「諸秘跡の拝受、祈り、感謝、聖なる生活のあかし、自己放棄、行動的な愛をもって」(『教会憲章』10)信者の共通祭司職を行使する、最適の場所です。したがって、家庭はキリスト教的生活の最初の学校、「豊かな人間形成の学校」(『現代世界憲章』52)なのです。そこでわたしたちは、忍耐力、仕事の喜び、兄弟愛、寛容で幾度も繰り返されるゆるし合い、そしてとくに、祈りや自分のいのちをささげることによる敬神を学びます。

1658
このほかに、何らかの事情のために、多くの場合は不本意ながら、独身生活を送ることを余儀なくされた多くの人たちがいます。彼らはとくにイエスが愛しておられる人々であり、それだけに、教会とくに司牧者の温かい配慮を受けるに値する人たちです。彼らの多くは貧困のゆえに普通の家族を持たない人たちです。その中には真福ハ端の精神に従い、神と隣人とに模範的に仕えながら自分たちの境遇を生きていく人たちもいます。これらのすべての人に、「家族教会」としての家族の扉を、そして大きな家族である教会の扉を開かなければなりません。「世界に家庭のない人はいないはずです。教会はすべての人にとって、とくに『疲れた者、重荷を負う者』(マタィ11∙28)にとって、家庭であり家族です」(ヨハネ・パウロ2世『家庭』85 loc.cit. 187)。

要約

1659
聖パウロは、「夫たちよ、キリストが教会を愛〔され〕たように、妻を愛しなさい。……この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙25,32)といっています。

1660
結婚の契約によって一人の男と一人の女とがいのちと愛とによる親密な共同体を形づくりますが、この結婚は創造主によって設立され、独自の法則を与えられています。結婚は本質的に夫婦の善益と子供の出産および教育とに向けられています。受洗者同士の結婚は主キリストによって尊い秘跡にまで高められました(『現代世界憲章』48、「新教会法典」第1055条第1項参照)。

1661
結婚の秘跡は、キリストと教会との一致のしるしです。この秘跡によって、夫婦に、キリストがご自分の教会を愛されたその愛で互いに愛し合う恵みが与えられます。したがって、結婚の秘跡の恵みは夫婦の人間的愛を完成し、二人の不解消の一致を強め、永遠のいのちに向かう道の途上で夫婦を聖化します(トリエント公会議第24総会『結婚の秘蹟について』DS1799参照)。

1662
結婚は配偶者間の合意、すなわち、忠実で出産に開かれた愛の契約を生き抜くために、相互に決定的に自己を与え合うという意志の上に成り立ちます。

1663
結婚によって夫婦は教会の中での公の生活身分を持つことになるので、結婚式は、司祭(または教会の有資格の証人)と複数の証人、および信者会衆の前で、典礼儀式に従って公に行われます。

1664
単一性、不解消性、出産に開かれた心というものは、結婚の本質に属することです。一夫多妻は単一性とは相いれません。離婚は神が合わされたものを離すことです。出産の拒否は、結婚の「もっとも貴重なたまもの」である子供の出産に向けられた夫婦生活をゆがめるものです(『現代世界憲章』50参照)。

1665
離婚者が配偶者の存命中に再婚することは、キリストが教えられた神の計画とおきてとに背きます。このように再婚した者は教会から離れたわけではありませんが、聖体拝領はできません。彼らは子供たちの信仰を育てることによってキリスト者としての生活を送ります。

1666
キリスト教的家庭は、子供たちが信仰の最初の告知を受ける場です。それゆえに、家族的な家庭はまさしく「家庭教会」と呼ばれます。それは、恵みと祈りとの共同体、人間的諸徳とキリスト教的愛とを教える学校です。

キリスト教入門について

Catecismo “El Sacramento del Matrimonio”

A lo largo de más de un mes hemos estamos revisando, uno a uno, los artículos del derecho matrimonial argentino.

Algunos nos habéis hecho llegar comentarios muy interesantes sobre las posibles raíces cristianas que veíais en algunos artículos del Código Civil Argentino que nos han alegrado mucho, pues, al igual que el Derecho Civil Español, en el argentino podemos notar sin duda una base directa en el Código Romano, pero al mismo tiempo podemos notar una clara influencia del Código Canónico y de la histórica cultura cristiana que ha sido parte de la idiosincrasia de dichos pueblos.

Es por eso que en la próxima video conferencia, a modo de un respiro en el estudio del Código Civil, dedicaremos la jornada a estudiar de nuevo el concepto de matrimonio cristiano y entre todos indagaremos este interesante tema.

Aquí subimos pues el apartado del Sacramento del Matrimonio del Catecismo de la Iglesia Católica para que podáis ir preparando la video conferencia, aunque esperamos vuestras aportaciones también en los aspectos sociales, históricos, culturales etc. relativos al matrimonio.

Respecto al texto de la traducción hemos realizado solo las modificaciones de estilo necesarias para que la presentación fuese acorde al texto original. A lo largo de las próximas clases puntuales y las prácticas de traducción e interpretación os iremos indicando de qué manera nosotros revisaríamos y corregiríamos esta traducción, sin embargo os animamos a que hagáis un primer intento por vuestra cuenta.

CATECISMO DE LA IGLESIA CATÓLICA

SEGUNDA PARTE: LA CELEBRACIÓN DEL MISTERIO CRISTIANO

SEGUNDA SECCIÓN: LOS SIETE SACRAMENTOS DE LA IGLESIA

CAPÍTULO TERCERO: LOS SACRAMENTOS AL SERVICIO DE LA COMUNIDAD

ARTÍCULO 7: EL SACRAMENTO DEL MATRIMONIO

1601
“La alianza matrimonial, por la que el varón y la mujer constituyen entre sí un consorcio de toda la vida, ordenado por su misma índole natural al bien de los cónyuges y a la generación y educación de la prole, fue elevada por Cristo Nuestro Señor a la dignidad de sacramento entre bautizados” (CIC can. 1055, §1)

I. El matrimonio en el plan de Dios

1602
La sagrada Escritura se abre con el relato de la creación del hombre y de la mujer a imagen y semejanza de Dios (Gn 1,26- 27) y se cierra con la visión de las “bodas del Cordero” (Ap 19,9; cf. Ap 19, 7). De un extremo a otro la Escritura habla del matrimonio y de su “misterio”, de su institución y del sentido que Dios le dio, de su origen y de su fin, de sus realizaciones diversas a lo largo de la historia de la salvación, de sus dificultades nacidas del pecado y de su renovación “en el Señor” (1 Co 7,39) todo ello en la perspectiva de la Nueva Alianza de Cristo y de la Iglesia (cf Ef 5,31-32).

El matrimonio en el orden de la creación

1603
“La íntima comunidad de vida y amor conyugal, está fundada por el Creador y provista de leyes propias. […] El mismo Dios […] es el autor del matrimonio” (GS 48,1). La vocación al matrimonio se inscribe en la naturaleza misma del hombre y de la mujer, según salieron de la mano del Creador. El matrimonio no es una institución puramente humana a pesar de las numerosas variaciones que ha podido sufrir a lo largo de los siglos en las diferentes culturas, estructuras sociales y actitudes espirituales. Estas diversidades no deben hacer olvidar sus rasgos comunes y permanente. A pesar de que la dignidad de esta institución no se trasluzca siempre con la misma claridad (cf GS 47,2), existe en todas las culturas un cierto sentido de la grandeza de la unión matrimonial. “La salvación de la persona y de la sociedad humana y cristiana está estrechamente ligada a la prosperidad de la comunidad conyugal y familiar” (GS 47,1).

1604
Dios que ha creado al hombre por amor, lo ha llamado también al amor, vocación fundamental e innata de todo ser humano. Porque el hombre fue creado a imagen y semejanza de Dios (Gn 1,2), que es Amor (cf 1 Jn 4,8.16). Habiéndolos creado Dios hombre y mujer, el amor mutuo entre ellos se convierte en imagen del amor absoluto e indefectible con que Dios ama al hombre. Este amor es bueno, muy bueno, a los ojos del Creador (cf Gn 1,31). Y este amor que Dios bendice es destinado a ser fecundo y a realizarse en la obra común del cuidado de la creación. «Y los bendijo Dios y les dijo: “Sed fecundos y multiplicaos, y llenad la tierra y sometedla”» (Gn 1,28).

1605
La Sagrada escritura afirma que el hombre y la mujer fueron creados el uno para el otro: “No es bueno que el hombre esté solo” (Gn 2, 18). La mujer, “carne de su carne” (cf Gn 2, 23), su igual, la criatura más semejante al hombre mismo, le es dada por Dios como una “auxilio” (cf Gn 2, 18), representando así a Dios que es nuestro “auxilio” (cf Sal 121,2). “Por eso deja el hombre a su padre y a su madre y se une a su mujer, y se hacen una sola carne” (cf Gn 2,18-25). Que esto significa una unión indefectible de sus dos vidas, el Señor mismo lo muestra recordando cuál fue “en el principio”, el plan del Creador (cf Mt 19, 4): “De manera que ya no son dos sino una sola carne” (Mt 19,6).

El matrimonio bajo la esclavitud del pecado

1606
Todo hombre, tanto en su entorno como en su propio corazón, vive la experiencia del mal. Esta experiencia se hace sentir también en las relaciones entre el hombre y la mujer. En todo tiempo, la unión del hombre y la mujer vive amenazada por la discordia, el espíritu de dominio, la infidelidad, los celos y conflictos que pueden conducir hasta el odio y la ruptura. Este desorden puede manifestarse de manera más o menos aguda, y puede ser más o menos superado, según las culturas, las épocas, los individuos, pero siempre aparece como algo de carácter universal.

1607
Según la fe, este desorden que constatamos dolorosamente, no se origina en la naturaleza del hombre y de la mujer, ni en la naturaleza de sus relaciones, sino en el pecado. El primer pecado, ruptura con Dios, tiene como consecuencia primera la ruptura de la comunión original entre el hombre y la mujer. Sus relaciones quedan distorsionadas por agravios recíprocos (cf Gn 3,12); su atractivo mutuo, don propio del creador (cf Gn 2,22), se cambia en relaciones de dominio y de concupiscencia (cf Gn 3,16); la hermosa vocación del hombre y de la mujer de ser fecundos, de multiplicarse y someter la tierra (cf Gn 1,28) queda sometida a los dolores del parto y los esfuerzos de ganar el pan (cf Gn 3,16-19).

1608
Sin embargo, el orden de la Creación subsiste aunque gravemente perturbado. Para sanar las heridas del pecado, el hombre y la mujer necesitan la ayuda de la gracia que Dios, en su misericordia infinita, jamás les ha negado (cf Gn 3,21). Sin esta ayuda, el hombre y la mujer no pueden llegar a realizar la unión de sus vidas en orden a la cual Dios los creó “al comienzo”.

El matrimonio bajo la pedagogía de la antigua Ley

1609
En su misericordia, Dios no abandonó al hombre pecador. Las penas que son consecuencia del pecado, “los dolores del parto” (Gn 3,16), el trabajo “con el sudor de tu frente” (Gn 3,19), constituyen también remedios que limitan los daños del pecado. Tras la caída, el matrimonio ayuda a vencer el repliegue sobre sí mismo, el egoísmo, la búsqueda del propio placer, y a abrirse al otro, a la ayuda mutua, al don de sí.

1610
La conciencia moral relativa a la unidad e indisolubilidad del matrimonio se desarrolló bajo la pedagogía de la Ley antigua. La poligamia de los patriarcas y de los reyes no es todavía criticada de una manera explícita. No obstante, la Ley dada por Moisés se orienta a proteger a la mujer contra un dominio arbitrario del hombre, aunque la Ley misma lleve también, según la palabra del Señor, las huellas de “la dureza del corazón” de la persona humana, razón por la cual Moisés permitió el repudio de la mujer (cf Mt 19,8; Dt 24,1).

1611
Contemplando la Alianza de Dios con Israel bajo la imagen de un amor conyugal exclusivo y fiel (cf Os 1-3; Is 54.62; Jr 2-3. 31; Ez 16,62;23), los profetas fueron preparando la conciencia del Pueblo elegido para una comprensión más profunda de la unidad y de la indisolubilidad del matrimonio (cf Ml 2,13-17). Los libros de Rut y de Tobías dan testimonios conmovedores del sentido hondo del matrimonio, de la fidelidad y de la ternura de los esposos. La Tradición ha visto siempre en el Cantar de los Cantares una expresión única del amor humano, en cuanto que este es reflejo del amor de Dios, amor “fuerte como la muerte” que “las grandes aguas no pueden anegar” (Ct 8,6-7).

El matrimonio en el Señor

1612
La alianza nupcial entre Dios y su pueblo Israel había preparado la Nueva y Eterna Alianza mediante la que el Hijo de Dios, encarnándose y dando su vida, se unió en cierta manera con toda la humanidad salvada por Él (cf. GS 22), preparando así “las bodas del cordero” (Ap 19,7.9).

1613
En el umbral de su vida pública, Jesús realiza su primer signo —a petición de su Madre— con ocasión de un banquete de boda (cf Jn 2,1-11). La Iglesia concede una gran importancia a la presencia de Jesús en las bodas de Caná. Ve en ella la confirmación de la bondad del matrimonio y el anuncio de que en adelante el matrimonio será un signo eficaz de la presencia de Cristo.

1614
En su predicación, Jesús enseñó sin ambigüedad el sentido original de la unión del hombre y la mujer, tal como el Creador la quiso al comienzo: la autorización, dada por Moisés, de repudiar a su mujer era una concesión a la dureza del corazón (cf Mt 19,8); la unión matrimonial del hombre y la mujer es indisoluble: Dios mismo la estableció: “lo que Dios unió, que no lo separe el hombre” (Mt 19,6).

1615
Esta insistencia, inequívoca, en la indisolubilidad del vínculo matrimonial pudo causar perplejidad y aparecer como una exigencia irrealizable (cf Mt 19,10). Sin embargo, Jesús no impuso a los esposos una carga imposible de llevar y demasiado pesada (cf Mt 11,29-30), más pesada que la Ley de Moisés. Viniendo para restablecer el orden inicial de la creación perturbado por el pecado, da la fuerza y la gracia para vivir el matrimonio en la dimensión nueva del Reino de Dios. Siguiendo a Cristo, renunciando a sí mismos, tomando sobre sí sus cruces (cf Mt 8,34), los esposos podrán “comprender” (cf Mt 19,11) el sentido original del matrimonio y vivirlo con la ayuda de Cristo. Esta gracia del Matrimonio cristiano es un fruto de la Cruz de Cristo, fuente de toda la vida cristiana.

1616
Es lo que el apóstol Pablo da a entender diciendo: “Maridos, amad a vuestras mujeres como Cristo amó a la Iglesia y se entregó a sí mismo por ella, para santificarla” (Ef 5,25-26), y añadiendo enseguida: «”Por eso dejará el hombre a su padre y a su madre y se unirá a su mujer, y los dos se harán una sola carne”. Gran misterio es éste, lo digo respecto a Cristo y a la Iglesia» (Ef 5,31-32).

1617
Toda la vida cristiana está marcada por el amor esponsal de Cristo y de la Iglesia. Ya el Bautismo, entrada en el Pueblo de Dios, es un misterio nupcial. Es, por así decirlo, como el baño de bodas (cf Ef 5,26-27) que precede al banquete de bodas, la Eucaristía. El Matrimonio cristiano viene a ser por su parte signo eficaz, sacramento de la alianza de Cristo y de la Iglesia. Puesto que es signo y comunicación de la gracia, el matrimonio entre bautizados es un verdadero sacramento de la Nueva Alianza (cf Concilio de Trento, DS 1800; CIC can. 1055 § 2).

La virginidad por el Reino de Dios

1618
Cristo es el centro de toda vida cristiana. El vínculo con Él ocupa el primer lugar entre todos los demás vínculos, familiares o sociales (cf Lc 14,26; Mc 10,28-31). Desde los comienzos de la Iglesia ha habido hombres y mujeres que han renunciado al gran bien del matrimonio para seguir al Cordero dondequiera que vaya (cf Ap 14,4), para ocuparse de las cosas del Señor, para tratar de agradarle (cf 1 Co 7,32), para ir al encuentro del Esposo que viene (cf Mt 25,6). Cristo mismo invitó a algunos a seguirle en este modo de vida del que Él es el modelo:

«Hay eunucos que nacieron así del seno materno, y hay eunucos hechos por los hombres, y hay eunucos que se hicieron tales a sí mismos por el Reino de los Cielos. Quien pueda entender, que entienda» (Mt 19,12).

1619
La virginidad por el Reino de los cielos es un desarrollo de la gracia bautismal, un signo poderoso de la preeminencia del vínculo con Cristo, de la ardiente espera de su retorno, un signo que recuerda también que el matrimonio es una realidad que manifiesta el carácter pasajero de este mundo (cf Mc 12,25; 1 Co 7,31).

1620
Estas dos realidades, el sacramento del Matrimonio y la virginidad por el Reino de Dios, vienen del Señor mismo. Es Él quien les da sentido y les concede la gracia indispensable para vivirlos conforme a su voluntad (cf Mt 19,3-12). La estima de la virginidad por el Reino (cf LG 42; PC 12; OT 10) y el sentido cristiano del Matrimonio son inseparables y se apoyan mutuamente:

«Denigrar el matrimonio es reducir a la vez la gloria de la virginidad; elogiarlo es realzar a la vez la admiración que corresponde a la virginidad. Pero lo que por comparación con lo peor parece bueno, no es bueno del todo; lo que según el parecer de todos es mejor que todos los bienes, eso sí que es en verdad un bien eminente» (San Juan Crisóstomo, De virginitate, 10,1; cf FC, 16).

II. La celebración del Matrimonio

1621
En el rito latino, la celebración del matrimonio entre dos fieles católicos tiene lugar ordinariamente dentro de la Santa Misa, en virtud del vínculo que tienen todos los sacramentos con el Misterio Pascual de Cristo (cf SC 61). En la Eucaristía se realiza el memorial de la Nueva Alianza, en la que Cristo se unió para siempre a la Iglesia, su esposa amada por la que se entregó (cf LG 6). Es, pues, conveniente que los esposos sellen su consentimiento en darse el uno al otro mediante la ofrenda de sus propias vidas, uniéndose a la ofrenda de Cristo por su Iglesia, hecha presente en el Sacrificio Eucarístico, y recibiendo la Eucaristía, para que, comulgando en el mismo Cuerpo y en la misma Sangre de Cristo, “formen un solo cuerpo” en Cristo (cf 1 Co 10,17).

1622
“En cuanto gesto sacramental de santificación, la celebración del matrimonio […] debe ser por sí misma válida, digna y fructuosa” (FC 67). Por tanto, conviene que los futuros esposos se dispongan a la celebración de su matrimonio recibiendo el sacramento de la Penitencia.

1623
Según la tradición latina, los esposos, como ministros de la gracia de Cristo, manifestando su consentimiento ante la Iglesia, se confieren mutuamente el sacramento del matrimonio. En las tradiciones de las Iglesias orientales, los sacerdotes –Obispos o presbíteros– son testigos del recíproco consentimiento expresado por los esposos (cf. CCEO, can. 817), pero también su bendición es necesaria para la validez del sacramento (cf CCEO, can. 828).

1624
Las diversas liturgias son ricas en oraciones de bendición y de epíclesis pidiendo a Dios su gracia y la bendición sobre la nueva pareja, especialmente sobre la esposa. En la epíclesis de este sacramento los esposos reciben el Espíritu Santo como Comunión de amor de Cristo y de la Iglesia (cf. Ef 5,32). El Espíritu Santo es el sello de la alianza de los esposos, la fuente siempre generosa de su amor, la fuerza con que se renovará su fidelidad.

III. El consentimiento matrimonial

1625
Los protagonistas de la alianza matrimonial son un hombre y una mujer bautizados, libres para contraer el matrimonio y que expresan libremente su consentimiento. “Ser libre” quiere decir:
— no obrar por coacción;
— no estar impedido por una ley natural o eclesiástica.

1626
La Iglesia considera el intercambio de los consentimientos entre los esposos como el elemento indispensable “que hace el matrimonio” (CIC can. 1057 §1). Si el consentimiento falta, no hay matrimonio.

1627
El consentimiento consiste en “un acto humano, por el cual los esposos se dan y se reciben mutuamente” (GS 48,1; cf CIC can. 1057 §2): “Yo te recibo como esposa” — “Yo te recibo como esposo” (Ritual de la celebración del Matrimonio, 62). Este consentimiento que une a los esposos entre sí, encuentra su plenitud en el hecho de que los dos “vienen a ser una sola carne” (cf Gn 2,24; Mc 10,8; Ef 5,31).

1628
El consentimiento debe ser un acto de la voluntad de cada uno de los contrayentes, libre de violencia o de temor grave externo (cf CIC can. 1103). Ningún poder humano puede reemplazar este consentimiento (CIC can. 1057 §1). Si esta libertad falta, el matrimonio es inválido.

1629
Por esta razón (o por otras razones que hacen nulo e inválido el matrimonio [cf. CIC can. 1095-1107]), la Iglesia, tras examinar la situación por el tribunal eclesiástico competente, puede declarar “la nulidad del matrimonio”, es decir, que el matrimonio no ha existido. En este caso, los contrayentes quedan libres para casarse, aunque deben cumplir las obligaciones naturales nacidas de una unión precedente anterior (cf CIC, can. 1071 § 1, 3).

1630
El sacerdote ( o el diácono) que asiste a la celebración del matrimonio, recibe el consentimiento de los esposos en nombre de la Iglesia y da la bendición de la Iglesia. La presencia del ministro de la Iglesia (y también de los testigos) expresa visiblemente que el Matrimonio es una realidad eclesial.

1631
Por esta razón, la Iglesia exige ordinariamente para sus fieles la forma eclesiástica de la celebración del matrimonio (cf Concilio de Trento: DS 1813-1816; CIC can 1108). Varias razones concurren para explicar esta determinación:
— El matrimonio sacramental es un acto litúrgico. Por tanto, es conveniente que sea celebrado en la liturgia pública de la Iglesia.
— El matrimonio introduce en un ordo eclesial, crea derechos y deberes en la Iglesia entre los esposos y para con los hijos.
— Por ser el matrimonio un estado de vida en la Iglesia, es preciso que exista certeza sobre él (de ahí la obligación de tener testigos).
— El carácter público del consentimiento protege el “Sí” una vez dado y ayuda a permanecer fiel a él.

1632
Para que el “Sí” de los esposos sea un acto libre y responsable, y para que la alianza matrimonial tenga fundamentos humanos y cristianos sólidos y estables, la preparación para el matrimonio es de primera importancia:

El ejemplo y la enseñanza dados por los padres y por las familias son el camino privilegiado de esta preparación.

El papel de los pastores y de la comunidad cristiana como “familia de Dios” es indispensable para la transmisión de los valores humanos y cristianos del matrimonio y de la familia (cf. CIC can 1063), y esto con mayor razón en nuestra época en la que muchos jóvenes conocen la experiencia de hogares rotos que ya no aseguran suficientemente esta iniciación:

«Los jóvenes deben ser instruidos adecuada y oportunamente sobre la dignidad, tareas y ejercicio del amor conyugal, sobre todo en el seno de la misma familia, para que, educados en el cultivo de la castidad, puedan pasar, a la edad conveniente, de un honesto noviazgo, al matrimonio» (GS 49,3).

Matrimonios mixtos y disparidad de culto

1633
En numerosos países, la situación del matrimonio mixto (entre católico y bautizado no católico) se presenta con bastante frecuencia. Exige una atención particular de los cónyuges y de los pastores. El caso de matrimonios con disparidad de culto (entre católico y no bautizado) exige aún una mayor atención.

1634
La diferencia de confesión entre los cónyuges no constituye un obstáculo insuperable para el matrimonio, cuando llegan a poner en común lo que cada uno de ellos ha recibido en su comunidad, y a aprender el uno del otro el modo como cada uno vive su fidelidad a Cristo. Pero las dificultades de los matrimonios mixtos no deben tampoco ser subestimadas. Se deben al hecho de que la separación de los cristianos no se ha superado todavía. Los esposos corren el peligro de vivir en el seno de su hogar el drama de la desunión de los cristianos. La disparidad de culto puede agravar aún más estas dificultades. Divergencias en la fe, en la concepción misma del matrimonio, pero también mentalidades religiosas distintas pueden constituir una fuente de tensiones en el matrimonio, principalmente a propósito de la educación de los hijos. Una tentación que puede presentarse entonces es la indiferencia religiosa.

1635
Según el derecho vigente en la Iglesia latina, un matrimonio mixto necesita, para su licitud, el permiso expreso de la autoridad eclesiástica (cf CIC can. 1124). En caso de disparidad de culto se requiere una dispensa expresa del impedimento para la validez del matrimonio (cf CIC can. 1086). Este permiso o esta dispensa supone que ambas partes conozcan y no excluyan los fines y las propiedades esenciales del matrimonio: además, que la parte católica confirme los compromisos –también haciéndolos conocer a la parte no católica– de conservar la propia fe y de asegurar el Bautismo y la educación de los hijos en la Iglesia Católica (cf CIC can. 1125).

1636
En muchas regiones, gracias al diálogo ecuménico, las comunidades cristianas interesadas han podido llevar a cabo una pastoral común para los matrimonios mixtos. Su objetivo es ayudar a estas parejas a vivir su situación particular a la luz de la fe. Debe también ayudarles a superar las tensiones entre las obligaciones de los cónyuges, el uno con el otro, y con sus comunidades eclesiales. Debe alentar el desarrollo de lo que les es común en la fe, y el respeto de lo que los separa.

1637
En los matrimonios con disparidad de culto, el esposo católico tiene una tarea particular: “Pues el marido no creyente queda santificado por su mujer, y la mujer no creyente queda santificada por el marido creyente” ( 1 Co 7,14). Es un gran gozo para el cónyuge cristiano y para la Iglesia el que esta “santificación” conduzca a la conversión libre del otro cónyuge a la fe cristiana (cf. 1 Co 7,16). El amor conyugal sincero, la práctica humilde y paciente de las virtudes familiares, y la oración perseverante pueden preparar al cónyuge no creyente a recibir la gracia de la conversión.

IV. Los efectos del sacramento del Matrimonio

1638
“Del matrimonio válido se origina entre los cónyuges un vínculo perpetuo y exclusivo por su misma naturaleza; además, en el matrimonio cristiano los cónyuges son fortalecidos y quedan como consagrados por un sacramento peculiar para los deberes y la dignidad de su estado” (CIC can 1134).

El vínculo matrimonial

1639
El consentimiento por el que los esposos se dan y se reciben mutuamente es sellado por el mismo Dios (cf Mc 10,9). De su alianza “nace una institución estable por ordenación divina, también ante la sociedad” (GS 48,1). La alianza de los esposos está integrada en la alianza de Dios con los hombres: “el auténtico amor conyugal es asumido en el amor divino” (GS 48,2).

1640
Por tanto, el vínculo matrimonial es establecido por Dios mismo, de modo que el matrimonio celebrado y consumado entre bautizados no puede ser disuelto jamás. Este vínculo que resulta del acto humano libre de los esposos y de la consumación del matrimonio es una realidad ya irrevocable y da origen a una alianza garantizada por la fidelidad de Dios. La Iglesia no tiene poder para pronunciarse contra esta disposición de la sabiduría divina (cf CIC can. 1141).

La gracia del sacramento del Matrimonio

1641
“En su modo y estado de vida, los cónyuges cristianos tienen su carisma propio en el Pueblo de Dios” (LG 11). Esta gracia propia del sacramento del Matrimonio está destinada a perfeccionar el amor de los cónyuges, a fortalecer su unidad indisoluble. Por medio de esta gracia “se ayudan mutuamente a santificarse en la vida conyugal y en la acogida y educación de los hijos” (LG 11; cf LG 41).

1642
Cristo es la fuente de esta gracia. “Pues de la misma manera que Dios en otro tiempo salió al encuentro de su pueblo por una alianza de amor y fidelidad, ahora el Salvador de los hombres y Esposo de la Iglesia, mediante el sacramento del Matrimonio, sale al encuentro de los esposos cristianos” (GS 48,2). Permanece con ellos, les da la fuerza de seguirle tomando su cruz, de levantarse después de sus caídas, de perdonarse mutuamente, de llevar unos las cargas de los otros (cf Ga 6,2), de estar “sometidos unos a otros en el temor de Cristo” (Ef 5,21) y de amarse con un amor sobrenatural, delicado y fecundo. En las alegrías de su amor y de su vida familiar les da, ya aquí, un gusto anticipado del banquete de las bodas del Cordero:

«¿De dónde voy a sacar la fuerza para describir de manera satisfactoria la dicha del matrimonio que celebra la Iglesia, que confirma la ofrenda, que sella la bendición, que los ángeles proclaman, y el Padre celestial ratifica? […].¡Qué matrimonio el de dos cristianos, unidos por una sola esperanza, un solo deseo, una sola disciplina, el mismo servicio! Los dos hijos de un mismo Padre, servidores de un mismo Señor; nada los separa, ni en el espíritu ni en la carne; al contrario, son verdaderamente dos en una sola carne. Donde la carne es una, también es uno el espíritu (Tertuliano, Ad uxorem 2,9; cf. FC 13).

V. Los bienes y las exigencias del amor conyugal

1643
“El amor conyugal comporta una totalidad en la que entran todos los elementos de la persona —reclamo del cuerpo y del instinto, fuerza del sentimiento y de la afectividad, aspiración del espíritu y de la voluntad—; mira una unidad profundamente personal que, más allá de la unión en una sola carne, conduce a no tener más que un corazón y un alma; exige la indisolubilidad y la fidelidad de la donación recíproca definitiva; y se abre a fecundidad. En una palabra: se trata de características normales de todo amor conyugal natural, pero con un significado nuevo que no sólo las purifica y consolida, sino las eleva hasta el punto de hacer de ellas la expresión de valores propiamente cristianos” (FC 13).

Unidad e indisolubilidad del matrimonio

1644
El amor de los esposos exige, por su misma naturaleza, la unidad y la indisolubilidad de la comunidad de personas que abarca la vida entera de los esposos: “De manera que ya no son dos sino una sola carne” (Mt 19,6; cf Gn 2,24). “Están llamados a crecer continuamente en su comunión a través de la fidelidad cotidiana a la promesa matrimonial de la recíproca donación total” (FC 19). Esta comunión humana es confirmada, purificada y perfeccionada por la comunión en Jesucristo dada mediante el sacramento del Matrimonio. Se profundiza por la vida de la fe común y por la Eucaristía recibida en común.

1645
“La unidad del matrimonio aparece ampliamente confirmada por la igual dignidad personal que hay que reconocer a la mujer y el varón en el mutuo y pleno amor” (GS 49,2). La poligamia es contraria a esta igual dignidad de uno y otro y al amor conyugal que es único y exclusivo.

La fidelidad del amor conyugal

1646
El amor conyugal exige de los esposos, por su misma naturaleza, una fidelidad inviolable. Esto es consecuencia del don de sí mismos que se hacen mutuamente los esposos. El auténtico amor tiende por sí mismo a ser algo definitivo, no algo pasajero. “Esta íntima unión, en cuanto donación mutua de dos personas, así como el bien de los hijos exigen la fidelidad de los cónyuges y urgen su indisoluble unidad” (GS 48,1).

1647
Su motivo más profundo consiste en la fidelidad de Dios a su alianza, de Cristo a su Iglesia. Por el sacramento del matrimonio los esposos son capacitados para representar y testimoniar esta fidelidad. Por el sacramento, la indisolubilidad del matrimonio adquiere un sentido nuevo y más profundo.

1648
Puede parecer difícil, incluso imposible, atarse para toda la vida a un ser humano. Por ello es tanto más importante anunciar la buena nueva de que Dios nos ama con un amor definitivo e irrevocable, de que los esposos participan de este amor, que les conforta y mantiene, y de que por su fidelidad se convierten en testigos del amor fiel de Dios. Los esposos que, con la gracia de Dios, dan este testimonio, con frecuencia en condiciones muy difíciles, merecen la gratitud y el apoyo de la comunidad eclesial (cf FC 20).

1649
Existen, sin embargo, situaciones en que la convivencia matrimonial se hace prácticamente imposible por razones muy diversas. En tales casos, la Iglesia admite la separación física de los esposos y el fin de la cohabitación. Los esposos no cesan de ser marido y mujer delante de Dios; ni son libres para contraer una nueva unión. En esta situación difícil, la mejor solución sería, si es posible, la reconciliación. La comunidad cristiana está llamada a ayudar a estas personas a vivir cristianamente su situación en la fidelidad al vínculo de su matrimonio que permanece indisoluble (cf FC; 83; CIC can 1151-1155).

1650
Hoy son numerosos en muchos países los católicos que recurren al divorcio según las leyes civiles y que contraen también civilmente una nueva unión. La Iglesia mantiene, por fidelidad a la palabra de Jesucristo (“Quien repudie a su mujer y se case con otra, comete adulterio contra aquélla; y si ella repudia a su marido y se casa con otro, comete adulterio”: Mc 10,11-12), que no puede reconocer como válida esta nueva unión, si era válido el primer matrimonio. Si los divorciados se vuelven a casar civilmente, se ponen en una situación que contradice objetivamente a la ley de Dios. Por lo cual no pueden acceder a la comunión eucarística mientras persista esta situación, y por la misma razón no pueden ejercer ciertas responsabilidades eclesiales. La reconciliación mediante el sacramento de la penitencia no puede ser concedida más que aquellos que se arrepientan de haber violado el signo de la Alianza y de la fidelidad a Cristo y que se comprometan a vivir en total continencia.

1651
Respecto a los cristianos que viven en esta situación y que con frecuencia conservan la fe y desean educar cristianamente a sus hijos, los sacerdotes y toda la comunidad deben dar prueba de una atenta solicitud, a fin de que aquellos no se consideren como separados de la Iglesia, de cuya vida pueden y deben participar en cuanto bautizados:

«Exhórteseles a escuchar la Palabra de Dios, a frecuentar el sacrificio de la misa, a perseverar en la oración, a incrementar las obras de caridad y las iniciativas de la comunidad en favor de la justicia, a educar sus hijos en la fe cristiana, a cultivar el espíritu y las obras de penitencia para implorar de este modo, día a día, la gracia de Dios» (FC 84).

La apertura a la fecundidad

1652
“Por su naturaleza misma, la institución misma del matrimonio y el amor conyugal están ordenados a la procreación y a la educación de la prole y con ellas son coronados como su culminación” (GS 48,1):

«Los hijos son el don más excelente del matrimonio y contribuyen mucho al bien de sus mismos padres. El mismo Dios, que dijo: “No es bueno que el hombre esté solo (Gn 2,18), y que hizo desde el principio al hombre, varón y mujer” (Mt 19,4), queriendo comunicarle cierta participación especial en su propia obra creadora, bendijo al varón y a la mujer diciendo: “Creced y multiplicaos” (Gn 1,28). De ahí que el cultivo verdadero del amor conyugal y todo el sistema de vida familiar que de él procede, sin dejar posponer los otros fines del matrimonio, tienden a que los esposos estén dispuestos con fortaleza de ánimo a cooperar con el amor del Creador y Salvador, que por medio de ellos aumenta y enriquece su propia familia cada día más» (GS 50,1).

1653
La fecundidad del amor conyugal se extiende a los frutos de la vida moral, espiritual y sobrenatural que los padres transmiten a sus hijos por medio de la educación. Los padres son los principales y primeros educadores de sus hijos (cf. GE 3). En este sentido, la tarea fundamental del matrimonio y de la familia es estar al servicio de la vida (cf FC 28).

1654
Sin embargo, los esposos a los que Dios no ha concedido tener hijos pueden llevar una vida conyugal plena de sentido, humana y cristianamente. Su matrimonio puede irradiar una fecundidad de caridad, de acogida y de sacrificio.

VI. La Iglesia doméstica

1655
Cristo quiso nacer y crecer en el seno de la Sagrada Familia de José y de María. La Iglesia no es otra cosa que la “familia de Dios”. Desde sus orígenes, el núcleo de la Iglesia estaba a menudo constituido por los que, “con toda su casa”, habían llegado a ser creyentes (cf Hch 18,8). Cuando se convertían deseaban también que se salvase “toda su casa” (cf Hch 16,31; 11,14). Estas familias convertidas eran islotes de vida cristiana en un mundo no creyente.

1656
En nuestros días, en un mundo frecuentemente extraño e incluso hostil a la fe, las familias creyentes tienen una importancia primordial en cuanto faros de una fe viva e irradiadora. Por eso el Concilio Vaticano II llama a la familia, con una antigua expresión, Ecclesia domestica (LG 11; cf. FC 21). En el seno de la familia, “los padres han de ser para sus hijos los primeros anunciadores de la fe con su palabra y con su ejemplo, y han de fomentar la vocación personal de cada uno y, con especial cuidado, la vocación a la vida consagrada” (LG 11).

1657
Aquí es donde se ejercita de manera privilegiada el sacerdocio bautismal del padre de familia, de la madre, de los hijos, de todos los miembros de la familia, “en la recepción de los sacramentos, en la oración y en la acción de gracias, con el testimonio de una vida santa, con la renuncia y el amor que se traduce en obras” (LG 10). El hogar es así la primera escuela de vida cristiana y “escuela del más rico humanismo” (GS 52,1). Aquí se aprende la paciencia y el gozo del trabajo, el amor fraterno, el perdón generoso, incluso reiterado, y sobre todo el culto divino por medio de la oración y la ofrenda de la propia vida.

1658
Es preciso recordar asimismo a un gran número de personas que permanecen solteras a causa de las concretas condiciones en que deben vivir, a menudo sin haberlo querido ellas mismas. Estas personas se encuentran particularmente cercanas al corazón de Jesús; y, por ello, merecen afecto y solicitud diligentes de la Iglesia, particularmente de sus pastores. Muchas de ellas viven sin familia humana, con frecuencia a causa de condiciones de pobreza. Hay quienes viven su situación según el espíritu de las bienaventuranzas sirviendo a Dios y al prójimo de manera ejemplar. A todas ellas es preciso abrirles las puertas de los hogares, “iglesias domésticas” y las puertas de la gran familia que es la Iglesia. «Nadie se sienta sin familia en este mundo: la Iglesia es casa y familia de todos, especialmente para cuantos están “fatigados y agobiados” (Mt 11,28)» (FC 85).

Resumen

1659
San Pablo dice: “Maridos, amad a vuestras mujeres como Cristo amó a la Iglesia […]Gran misterio es éste, lo digo con respecto a Cristo y la Iglesia” (Ef 5,25.32).

1660
La alianza matrimonial, por la que un hombre y una mujer constituyen una íntima comunidad de vida y de amor, fue fundada y dotada de sus leyes propias por el Creador. Por su naturaleza está ordenada al bien de los cónyuges así como a la generación y educación de los hijos. Entre bautizados, el matrimonio ha sido elevado por Cristo Señor a la dignidad de sacramento (cf. GS 48,1; CIC can. 1055, §1).

1661
El sacramento del Matrimonio significa la unión de Cristo con la Iglesia. Da a los esposos la gracia de amarse con el amor con que Cristo amó a su Iglesia; la gracia del sacramento perfecciona así el amor humano de los esposos, reafirma su unidad indisoluble y los santifica en el camino de la vida eterna (cf. Concilio de Trento: DS 1799).

1662
El matrimonio se funda en el consentimiento de los contrayentes, es decir, en la voluntad de darse mutua y definitivamente con el fin de vivir una alianza de amor fiel y fecundo.

1663
Dado que el matrimonio establece a los cónyuges en un estado público de vida en la Iglesia, la celebración del mismo se hace ordinariamente de modo público, en el marco de una celebración litúrgica, ante el sacerdote (o el testigo cualificado de la Iglesia), los testigos y la asamblea de los fieles.

1664
La unidad, la indisolubilidad, y la apertura a la fecundidad son esenciales al matrimonio. La poligamia es incompatible con la unidad del matrimonio; el divorcio separa lo que Dios ha unido; el rechazo de la fecundidad priva la vida conyugal de su “don más excelente”, el hijo (GS 50,1).

1665
Contraer un nuevo matrimonio por parte de los divorciados mientras viven sus cónyuges legítimos contradice el plan y la ley de Dios enseñados por Cristo. Los que viven en esta situación no están separados de la Iglesia pero no pueden acceder a la comunión eucarística. Pueden vivir su vida cristiana sobre todo educando a sus hijos en la fe.

1666
El hogar cristiano es el lugar en que los hijos reciben el primer anuncio de la fe. Por eso la casa familiar es llamada justamente “Iglesia doméstica”, comunidad de gracia y de oración, escuela de virtudes humanas y de caridad cristiana.

Finalidad de este apartado