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使徒的勧告「アモリス・レティティア(愛のよろこび)」【要約】
家庭における愛について、世界司教会議(シノドス)後使徒的勧告「アモリス・レティティア(愛のよろこび)」-要約- -原文(スペイン語)は こちら 【バチカン放送局 2016年04月08日】 「Amoris laetitia」 家庭における愛について-【要約】 「Amoris laetitia(アモリス・レティティア)」(訳:「愛の喜び」、以下「勧告AL」という)とは、 「家庭における愛」をテーマとした、世界司教会議(シノドス)後の使徒的勧告であって、その日付が3月19日すなわち聖ヨセフの祝日とされたのは偶然ではない。この使徒的勧告は、2014年と2015年に教皇フランシスコにより招集された家庭に関する二つのシノドスの結論を取り入れており、両シノドスにて採択された最終提言書は長く引用されている。同時に、歴代の教皇の教えと公文書が引用されるとともに、教皇フランシスコ自身の家庭に関する多くのカテケージスも引用されている。なお、近時の教会教導職の他の公文書と同じように、教皇は世界各地(ケニア、オーストラリア、アルゼンチン等)の司教協議会からの提言も使用しており、さらにマーティン・ルーサー・キングやエーリヒ・フロムといった著名人からの引用もなされている。中でも印象的なものとして、無償の愛の概念を説明する際に教皇は映画「バベットの晩餐会」さえも引用したこと等が挙げられよう。 序章 今回の使徒的勧告は驚くほど広大にして、その構成も印象的である。300を超える条項が九つの章に分けられている。序章として7つの条項が設けられ、その光に照らされて今回扱うテーマがいかに複雑かを認識させられ、このテーマを深く掘り下げる必要性が示されている。シノドスでの教父らの発言は「美しい多面体」(勧告AL4)を構成しており、それを保護すべきものとして紹介される。その意味で、「教義・倫理・司牧のいかなる論争も、一概に教会教導権により解決されるべきものとは限らない」と教皇が書き記している。すなわち、特定の問題については「各国や各地域では、現地の文化にさらに根付いた解決の方法の有無を探求すべき場合もあり、現地の慣習と課題に配慮する解決方法の有無を探す」べきである。実に、「それぞれの文化が異なるゆえに、いかなる一般原理も、 〔中略〕 それが適用され遵守されるものとなるためには、まずは文化的な受肉(受容=インカルチュレーション)されることが必要である」(勧告AL3) そもそも、問題を提起したり、問題そのものを理解するためにも、このようなインカルチュレーション原理は非常に重要である。とはいえ、教会の教導権が明確に定義した教理上の事柄の場合をのぞいては、この原理さえも「グローバル化」すべきではないのである。 ここで教皇はまず、変化を病理的なまでに切望することと、抽象的な規範を単に機械的に適用することを対比する不毛な態度から脱出すべきだということを厳格かつ明確に断言しているのである。教皇は以下の通り記述する「マスメディアでも、各種の出版物でも、ときには教会の聖職者の間になされている議論の中にさえも、十分な熟考も根拠もなく全てを変化させたいという節度を欠いた願望によるものもあれば、一般的な規範を単に適用することで全てを解決しようとしたり、特定の神学的考察から過剰な結論を導こうとするもの」(勧告AL2)さえもあるのである。 第一章 「みことばの光に照らされて」 以上のことを踏まえたうえで、第一章では教皇は聖書から出発して考察を組上げており、ユダヤ教結婚の典礼でもキリスト教の結婚の典礼でも使用されている詩篇128の黙想として展開している。聖書には「多くの家庭があらわれ、世代間に繰り広げられる愛の物語や家庭の危機等があらわれている」(勧告AL 8) 以上のことからも、家庭とは抽象的な理想ではなく、むしろ「職人の手仕事」(勧告AL 16) のようなものであって、そこには優しさが伝えられるが (勧告AL 28)、それと同時に、家庭は初めのときから罪に直面し、罪によって愛の関係が所有の関係に変えられてしまう (勧告AL 19参照)ことになる。そのようなときも、神のみことばは「抽象的な文章の羅列ではなく、危機や苦しみを経験している家族のために旅の友であり、歩むべき道を指し示して」 (勧告AL 22)くれるものである。 第二章 「家庭の現状と課題」 第二章で教皇は、聖書から出発して家庭の現状をとらえて行く。二つのシノドスの結論等を広く引用しながら、「地に足をつけて」 (勧告AL 6) 様々な問題を取り上げて、それらを真っ向から考えていくのである。すなわち、移民の問題、性差排除思想(ジェンダー思想)、一時的(仮のもの)文化、出産や生殖の分野におけるバイオテクノロジーの影響と避妊思想、住居問題や失業問題、ポルノや児童虐待、障害者への配慮、年配の方々への尊敬、家庭の法的解体(崩壊)、女性に対する暴力等、多くの問題を取り上げている。使徒的勧告の特徴の一つでもあるが、教皇は具体的な事柄を強調する。実に、具体的な事柄とリアリズム(現実主義)こそが、現実を解釈し得る理論と単なる「イデオロギー」とを本質的に識別できるものだからである。 第三章 「イエスを見る眼差し:家庭の召命」 第三章は結婚や家庭に関する教会の教えの本質的な要素が取り上げられている。この章は非常に重要であり、わずか30の条項において、福音における家庭の召命を全体的にわかりやすく説くものでもある。時代を超えて教会がこれをどのように理解してきたのか、特に結婚の不解消性と秘跡性や、子どもへの生命と信仰の継承等のテーマが取り上げれれている。第二バチカン公会議『現代世界憲章』、教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ(人間の生命)』や、 教皇ヨハネパウロ二世使徒的勧告『ファミリアリス・コンソルティオ(家庭、愛といのちのきずな)』が広く引用されている。 広い視野をもって、本章では「不完全な状態」についても言及している。すなわち教会は「国々の文化にある『みことばの種(「semina Verbi」教会の宣教活動に関する教令「Ad Gentes」第11条参照)』を識別することはできるが、これは結婚や家庭の事実についても同様に適用できるものである。したがって真正な自然婚以外にも、他の宗教的慣習の婚姻形態においても、影の部分が必ずあるものの、肯定的(ポジティブ)な要素もある」(勧告AL 77)と書かれている。本章の考察の中で「傷ついた家庭」にも触れており、これについて教皇は、2015年のシノドスの最終提言書を引用しながら「常に一般原則を覚えているように」呼びかけている。すなわち「牧者たちは、真理への愛によって、それぞれの状況を正しく識別する義務を負う」(世使徒的勧告『ファミリアリス・コンソルティオ(家庭、愛といのちのきずな)』84)のである。あらゆる事案において、責任の度合いは異なり、意思決定能力を制限するような要因が内在する可能性もある。そのため、教義が明確に表されるべきものであると同時に、それぞれの状況の複雑さを考慮しないような判断は避けるべきである。人々が置かれた状況でいかにして生きているのか、いかにして苦しんでいるのかに注意すべきである。 (勧告AL 79) 第四章 「結婚生活における愛」 第四章は結婚における愛を扱っているが、聖パウロの「愛の賛歌」(1コリ13章4-7節)から出発してこれを説いていく。本章はパウロ原文に対する真正にして正確かつ詩的な聖書釈義とも言うべき構成をしている。絶対的に具体的観点から、人間の愛を説明しようとする講話の多くの構成部分を収集したようなものである。この聖書釈義を締め括る心理的内観の深さに驚嘆せずにはいられない。配偶者相互の感情(肯定的な感情も否定的な感情も)の領域の心理面が深められ、愛のエロス次元の心理面も深められていく。配偶者のキリスト教的生活のために非常に豊かで貴重な内容であり、これまでの教皇公文書でかつてないものでもある。 全体の流れの中で、本章は独立した一体型の講話をなしており、あらゆる理想をも敵視する愛の日常性を念頭に置いたものでもある。「キリストと教会の間にある完全な一致を完璧に再現させるという絶大な重みを、制限のある二人の人間に負わせるべきでない。そもそも、結婚というしるしは『神の賜物を段階的に受け入れて完成させていくためのダイナミックなプロセス』だからである」 (勧告AL 122)と教皇が説明する。同時に教皇は、「夫婦の愛そのものが、本性として決定的なものへ開かれているもの」(勧告AL 123)であることを決然と強調している。実に結婚とは、まさにこのような「喜びと苦労、緊張と休息、苦痛と解放、満足と探求、不快感と快楽の組み合わせ」(勧告AL 126)に他ならないものである。 本章の結論として、「愛の変化」について非常に重要な考察がなされている。「人生の延長により、過去の時代では考えられなかった事態が起きている。親密な人間関係と相互所有の関係が四十、五十、六十年もの間に維持されるべきものとなって、それによって二人は常に相手を選び続けることが必要となる」 (勧告AL 163) なるほど身体的な外見は変化し、愛情の魅力は減少しないにしても変化する。すなわち、例えば性欲は次第に、さらに親密な関係や「協力関係」への要求へと変化していくものとなることもある。「一生涯、同じ感情を持ち続けることは約束できない。だが、安定した共同計画を持って、死が二人を別つまで愛し合い、一致して生活し続けることなら約束できる。これを通じて豊かな親密さに生き続けるのである。」(勧告AL 163). 第五章 「実り豊かな愛」 第五章では実り豊かさと生殖力という愛の次元に集中する。本章では、霊的にも心理学的にも深く様々なテーマを扱い、新たな命を受け入れることについて、妊娠という待つ期間について、母親の愛について、父親の愛についても説いている。これ以外にも多くのテーマを扱っており、例えば受胎能力の拡張や養子制度、「出会いの文化(culture of encounter)」を促進する家庭の貢献、叔父・叔母・従兄弟・親戚などを加えた広義の家庭生活についても触れている。使徒的勧告「アモリス・レティティア(愛のよろこび)」では「核家族」に限定することなく、家庭を人間関係のネットワークと捉えているのである。結婚の秘跡の神秘においても、深い社会的性格を見いだすこともできるのである。 (勧告AL 186参照) このような次元において、他者との関係における実践的成長の方法として、教皇は特に若者と年寄りの人間関係の役割や兄弟姉妹の人間関係の役割を強調している。 第六章 「いくつかの司牧的展望」 第六章にて教皇はいくつかの司牧的方法を取り上げているが、これらは神の計画にしたがった実りある確固とした家庭を形成するための指針となる。使徒的勧告のこの部分では、二つのシノドスにて採択された最終提言書や、教皇フランシスコや教皇ヨハネパウロ二世のカテケージスは長く引用されている。家庭とは福音化の客体(対象)であるのみならず、福音化の主体でもあることが確認される。ここで教皇は、「叙階を受けた聖職者はしばしば、現代の家庭が抱える複雑な問題に対応できるための養成が不足しがち」(勧告AL 202)だと指摘している。確かに、一方では神学生の精神・感情面の養成の向上をはかりつつ家庭が今以上に聖職者養成に加えられるべきであり (勧告AL 203参照)、他方では「有用な手段として 〔中略〕 東方教会の既婚司祭の古い伝統の体験も大切である」 (勧告AL 239参照)ことが挙げられる。 続いて教皇は、結婚への準備のために恋人たち(婚約者たち)を導くことをテーマとして取り上げ、さらに(責任ある親権の行使をも含めて)結婚生活の最初の数年の間に夫婦に寄り添う必要性にも触れている。同時に、複雑な状況や、特に危機の状態においては、「すべての危機には良い知らせが隠されており、心の耳を澄ましてこれ聞くことも学ぶべき」 (勧告AL 232)だということも指摘する。ここではさらに、感情的成熟の遅れなど、危機のいくつかの原因をも分析している。 (勧告AL 239参照). 取り上げられているテーマの中には見捨てられた人々、離別している人々、離婚している人々に寄り添う必要性についても触れており、中でも婚姻無効訴訟の手続きに関する最近の法改正の重要性が強調されている。争いの状況における子供たちの苦しみが浮き彫りにされ、結論として「離婚は悪であり、離婚数の増加は憂慮すべきものと言うべきである。だからこそ、家庭に対する我々の最も重要な司牧的役割とは、間違いなく愛を強化することであり、現代のこの悲劇の進行を予防できるように、傷の治癒に寄与することにある」 (勧告AL 246)ことが確認されている。 混宗婚姻の問題や同性愛的傾向を有する人のいる家庭の事案にも触れながら、これらの人々との関係における彼らへの尊敬を確認するとともに、いかなる不当な差別も、方法を問わずあらゆる攻撃や暴力をも排除すべきことが確認されている。本章の結論部分「死のとげが刺さるとき」が司牧的に特に美しく、愛する者の死及びやもめのテーマにも深く触れている。 第七章 「子どもの教育の強化」 第七章は子供の教育をテーマとしている。倫理教育や、刺激剤としての罰の価値、忍耐あるリアリズム、性教育、信仰の伝承等に触れ、全体として教育的な文脈としての家庭生活を説いている。本章では、各条項には実践的な世知が貫かれており、特に段階的成長の重要性が注目される。少しずつ「一歩一歩理解して、受け入れて、評価できる」(勧告AL 271)ことの重要性が指摘される。 中でも特に意味のある教育上根本的な条項にて、教皇フランシスコは以下のとおり記述する「執念(強迫観念)は教育上役立つものではない。子供の経験し得るすべての事態について網羅的にコントロールすることは不可能である 〔中略〕 そこで、親が執拗なまでに我が子がどこにいて何をしているかを知ろうとして、子のあらゆる動きをコントロールしようとするなら、子を支配することに他ならないものである。これでは子を教育することにはならず、子を強めることもなく、人生のあらゆる挑戦にむけて準備させていないことになる。何よりも重要なのは、大きな愛をもって、子を成長させるようなプロセスを引き起こすことであり、子の自由や能力の成熟と、全面的な成長と真正な自立を養成することである。」(勧告AL 261) また、性教育にあてられた段落は特に注目に値するものであり、その題名も「性教育を行うべきである」となっている。性教育の必要性が説かれ、「まさに性を衰えさせ矮小(陳腐)化するような今の時代において 〔中略〕 教会の教育機関でもこの挑戦を受けて」おり、性教育は「愛に開かれた教育の文脈の中で、相互の授受という文脈において」(勧告AL 280)なされるべきものである。本章では「セフティーセックス」という表現に警戒を呼びかけている。このような表現は、性の自然上の目的である生殖機能に対する否定的な姿勢を伝えるものであるのみならず、子の出産の可能性をまるで回避すべき敵であるかのように見せるものである。このようにして、子を迎えるのではなく、むしろナルシッシズム(自己陶酔)的な暴力が促進されているのである。」(勧告AL 283). 第八章 「弱さに寄り添い、識別して、招き入れる(統合する)」 第八章はいつくしみへの招きであり、主の言われたことに完全に合致しないような状況への司牧的識別への招きでもある。ここで教皇は非常に重要な三つの動詞を使用する。「寄り添うこと」、「識別する(判断する)こと」 そして「招き入れる(統合する)こと」である。この三つの言葉こそ、弱さの状態や複雑で不規則な状態に対応するうえで根本的である。ここで教皇は司牧に必要な漸進性を説くとともに、識別の重要性と、司牧的識別に際して酌量すべき規則や事情等、とにかく教皇自身が「司牧的いつくしみの論理」と定義付けるものの重要性を説くのである。 第八章は極めて繊細なテーマを扱っており、これを読むうえで「教会の仕事はしばしば野戦病院の仕事に似ている」(勧告AL 291)ことを思い出させるものでもある。シノドスにおいて論争議題とされたテーマに関する結論を受けて、キリスト教の結婚とは何かというテーマを真っ向から確認しようとするものである。また、「それ以外の他の婚姻形態の中には、このような理想像と根本的に矛盾するものもあれば、部分的に類似して実現しようとするものもある」。だからこそ教会は「結婚に関する教えに未だ適合しない、或いはもはや適合し得ないような状態さえも、教会はその中で建設的な要素があれば必ず評価するのである。」(勧告AL 292) なお、「不規則」な状態に対する「識別(判断)」について教皇は、「それぞれの事態の複雑さを考慮しないような判断は避けるべきであり、人々が置かれた状況でいかにして生きているのか、いかにして苦しんでいるのかに注意すべきである。」 (勧告AL 296) 教皇はさらに、「とにかく全ての人の統合を試みるべきであって、一人一人が教会共同体に参加できるための独自の方法を発見できるよう、一人一人を手助けすべきである。これによって人は、自分が慈しみの対象とされていることを現に体験しながらも、無条件で無償で与えられるその慈しみに値しない自分をも発見(自覚)するのである」(勧告AL 297)また、「例えば離婚再婚者の場合も、それぞれの複雑な状況を認識することが必要であり、各事案においてそれぞれ異なった状況下にあることが考えられる。その状況は人によって非常に異なるため、それに対して妥当な個別的・司牧的識別をすることなく、あまりに柔軟性のない厳しすぎる定義で分類したり決め付けたりすべきではない。」(勧告AL 298) その意味で、教皇はシノドスの多くの教父らの発言を受けて、「離婚した後に民事上の再婚をした受洗者は、いかなる躓きの機会をも回避しながらも、あらゆる可能な方法でキリスト教共同体に組み入れられるべきである」。また、「この方々は教会の様々な奉仕において参加することが出来るが 〔中略〕 彼らが破門されていると感じるようなことはあってはならず、教会の生きた構成員として生きて成長することが出来る 〔中略〕 このように招き入れる(統合する)ことは、彼らの子供への配慮や子どものキリスト教の教育のためにも必要であって、これらの子供こそ誰よりも重要な当事者として捉えて対応すべきである」(勧告AL 299) 本使徒的勧告の意味と方向性とを理解するうえで、教皇はここで非常に重要なことを言明する、すなわち「起こり得る具体的状況があまりに数多く、あまりに多種多様であるので、 〔中略〕 シノドスにおいても或いは本使徒的勧告においても、全ての事案に適用し得るような教会法上の新たな一般原則の新設を期待すべきではない。むしろ、個別の事案への個人的・司牧的識別を行う上で責任ある判断ができるための新たな励ましができる」だけである。なぜなら、確かに「あらゆる事案において責任の度合いが異なる」ように、特定の規範から導かれる効果や結論が必ずしも同じものとなるとは限らないのである。」(勧告AL 300) このようにして教皇は、信徒と司牧者の絶え間ない深い対話において見出されるべき「寄り添い」と「識別」の道の特徴と要求をここで展開しているのである。教会もこの目的のために熟考すべきである。教会は「聖トマス・アクィナスの理論に基づいて、行為の帰属性と責任能力を決定する条件と情状を熟考して」いく。教会は「規範と識別の関係」については、「確かに一般原則を定めることは無視すべきでない程度の善をなすものではあるが、それを定義する際にはあらゆる個別状況・事案をすべて網羅することは不可能である。同時に、まさに同じような理由から、個別の状況に対する実践的識別を構成するような判断も、規範の類型にまで引き上げることがあってはならないのである。」(勧告AL 304) 本章の最終段落では、「司牧的いつくしみの論理」という題名のもとで教皇フランシスコは、誤解を避けるためにも以下の通り力強く再確認している、「例外的な状況に対する理解があるからといって、それが完全な理想の光を隠すものとなってはならず、そもそもイエスが提唱するものに達しないようなことを教会がすすめるわけにはいかないのである。現在、失敗の司牧なんかよりも、離別を予防するためにも結婚を強める司牧的努力のほうが重要である」(勧告AL 307)ただ、本章の全体的な意味について、さらに教皇が教会司牧にどのような霊を刻みたいのかという点についても、最後の言葉にこれが明確に示すものである。「複雑な状況下にいる信徒が自分の牧者や、或いは主に人生を捧げる他の信徒と話すように招きます。この方々と話すことで必ずしも自分の考えや望みが確認(承認)されないかもしれないが、きっと新たな光をもらって自分に起きている事柄がよりよく理解できることになり、個人として成長するための道の発見につながることだろう。牧者たちは常に落ち着いて優しく相手に耳を傾け、人々の悲劇の核心に入り、人々の視点(気持ち)を理解するために真心で近づき、人々が教会での居場所を見つけ、よりよく生きることに寄与するものでなければならない。」 (勧告AL 312) なお、「司牧的いつくしみの論理」については、教皇フランシスコは以下のように強調する、「我々は時折、神の無条件の愛を司牧に反映できずに苦労することも多々ある。我々は神のいつくしみに多くの条件を付けて、いつくしみから具体的な意味やその現実性を奪い空虚なものにしてしまうこともある。これこそ、福音を薄めてしまう(溶解する)最悪の方法と言わなければならない。」(勧告AL 311). 第九章 「夫婦と家庭の霊性」 第九章は夫婦と家庭の霊性をテーマとするが、それは「何千もの具体的で本物の愛情表現」 (勧告AL 315)からなるものである。本章では、「深い霊性を求める者にとって、家庭は霊的道程の成長を妨げるものであはなく、むしろ家庭は、神秘結合の頂にまで己を導くために主が使用する道である」(勧告AL 316)ことが明確に述べられている。そこで、何もかも「すなわち喜びのひととき、休息も、祝いも、性さえも、主の復活の完成した命への参加として体験されるものとなる。」 (勧告AL 317) そこでは復活の光に照らされて祈ることや、排他的かつ自由な愛、すなわち神の愛を示しながら、ともに年を取ってともにすり減っていこうという望みが現れるのである。 (勧告AL 319参照) 結局のところ、これは「相互に世話し合い、慰め、刺激し合う」霊性であって、「家庭生活の全てが慈しみ深い「遊牧」であり、そこでは各自が注意深く相手の人生に字を綴り、絵を描いていく」 (勧告AL 322)ようなものだと教皇が指摘する。このように、「愛おしい相手を神の目で眺めて、相手の中にイエスを発見すること」(勧告AL 323)は極めて深い霊的体験である。 最後の条項では、教皇は以下のように断言する。「いかなる家庭も常に完璧で、一回だけで型どおりに創り上げられるものではなく、愛する次元での絶え間ない成長が必要である。 〔中略〕 私たちはみんな、自分自身や自分の限界を超えたところを目指し続ける緊張感を保ち続けるように呼ばれており、いかなる家庭もこのような絶え間ない刺激において生きるように呼ばれているのである。家庭よ、歩みましょう!歩み続けましょう! 〔中略〕 自己の限界を前にして失望することなく、約束された完全な愛と一致を求め続けましょう!」 (勧告AL 325) 聖家族への祈りによって使徒的勧告が締め括られている。(勧告AL 325). *** *** *** 以上のとおり、内容を簡単にみていくだけでも、使徒的勧告「アモリス・レティティア(愛のよろび)」 では、家庭の「理想」が叫ばれるのではなく、むしろ家庭の豊かで複雑な現実を確認しようとするものである。紐解いて見ると、深く肯定的な視点をもって、抽象的な概念や理想的な計画等で成長するのではなく、むしろ現実に対する司牧的的配慮によって成長していくものである。使徒的勧告では霊的な助言とともに、実践的な世知がまとめられ、家庭を形成しようとする人々にとって役立つものである。これは何にも増して、具体的な体験の結果である。家庭とは何か、長年寄り添うことを体験的にわかる人々の具体的な体験のをまとめた結果である。実に、この使徒的勧告では実体験という言語をつかって話されているのだということができるのである。 *** *** *** |
Exhortación apostólica “Amoris laetitia(alegría del amor)”【Síntesis】
Exhortación apostólica post-sinodal sobre el amor en la familia: “Amoris laetitia” -Síntesis - -Texto original (español) aquí 【Radio Vaticana 08/04/2016】 Con una breve nota del Papa Francisco los Obispos recibieron el texto de la Exhortación apostólica “Amoris laetitia”. La nota dice: Amoris laetitia, sobre el amor en la familia (síntesis) “Amoris laetitia” (AL – “La alegría del amor”), la Exhortación apostólica post-sinodal “sobre el amor en la familia”, con fecha no casual del 19 de marzo, Solemnidad de San José, recoge los resultados de dos Sínodos sobre la familia convocados por Papa Francisco en el 2014 y en el 2015, cuyas Relaciones conclusivas son largamente citadas, junto a los documentos y enseñanzas de sus Predecesores y a las numerosas catequesis sobre la familia del mismo Papa Francisco. Todavía, como ya ha sucedido en otros documentos magisteriales, el Papa hace uso tambiénde las contribuciones de diversas Conferencias episcopales del mundo (Kenia, Australia, Argentina…) y de citaciones de personalidades significativas como Martin Luther King o Eric Fromm. Es particular una citación de la película “La fiesta de Babette”, que el Papa recuerda para explicar el concepto de gratuidad. Premisa La Exhortación apostólica impresiona por su amplitud y articulación. Esta se subdivide en nueva capítulos y más de 300 párrafos. Se abre con siete párrafos introductivos que ponen en plena luz la conciencia de la complejidad del tema y la profundización que requiere. Se afirma que las intervenciones de los Padres en el Sínodo han compuesto un “precioso poliedro” (AL 4) que debe ser preservado. En este sentido, el Papa escribe que “no todas las discusiones doctrinales, morales o pastorales deben ser resueltas con intervenciones del magisterio”. Por lo tanto para algunas cuestiones “en cada país o región se deben buscar soluciones más inculturadas, atentas a la tradiciones y a los desafíos locales. De hecho,“las culturas son muy diversas entre sí y todo principio general (…) tiene necesidad de ser inculturado, si quiere ser observado y aplicado”” (AL 3). Este principio de inculturación resulta verdaderamente importante incluso en el modo de plantear y comprender los problemas que, más allá de las cuestiones dogmáticas bien definidas del Magisterio de la Iglesia, no puede ser “globalizado”. Pero sobre todo el Papa afirma inmediatamente y con claridad que es necesario salir de la estéril contraposición entre la ansiedad de cambio y la aplicación pura y simple de normas abstractas. Escribe: “los debates que se dan en los medios de comunicación, en las publicaciones y aún entre ministros de la Iglesia, van desde un deseo desenfrenado de cambiar todo sin suficiente reflexión o fundamentación, hasta la actitud de pretender resolver todo aplicando normativas generales o extrayendo conclusiones excesivas de algunas reflexiones teológicas” (AL 2). Capítulo primero: “A la luz de la Palabra” Puestas estas premisas, el Papa articula su reflexión a partir de la Sagrada Escritura en el primer capítulo, que se desarrolla como una meditación sobre el Salmo 128, característico de la liturgia nupcial tanto judía como cristiana. La Biblia “está poblada de familias, de generaciones, de historias de amor y de crisis familiares” (AL 8) y a partir de este dato se puede meditar cómo la familia no es un ideal abstracto sino un “trabajo ‘artesanal’” (AL 16) que se expresa con ternura (AL 28) pero que se ha confrontado también con el pecado desde el inicio, cuando la relación de amor se transforma en dominio (cfr. AL 19). Entonces la Palabra de Dios “no se muestra como un secuencia de tesis abstractas, sino como una compañera de viaje también para las familias que están en crisis o en medio de algún dolor, y les muestra la meta del camino” (AL 22). Capítulo segundo: “La realidad y los desafíos de la familia” A partir del terreno bíblico en el segundo capítulo el Papa considera la situación actual de las familias, poniendo “los pies sobre la tierra” (AL 6), recurriendo ampliamente a las Relaciones conclusivas de los dos Sínodos y afrontando numerosos desafíos, desde el fenómeno migratorio a las negociaciones ideológicas de la diferencia de sexos (“ideología del gender”); desde la cultura de lo provisorio a la mentalidad antinatalista y al impacto de la biotecnología en el campo de la procreación; de la falta de casa y de trabajo a la pornografía y el abuso de menores; de la atención a las personas con discapacidad, al respeto de los ancianos; de la desconstrucción jurídica de la familia, a la violencia contra las mujeres. El Papa insiste sobre lo concreto, que es una propiedad fundamental de la Exhortación. Y son las cosas concretas y el realismo que ponen una substancial diferencia entre teoría de interpretación de la realidad e “ideologías”. Citando la Familiares consortio Francisco afirma que “es sano prestar atención a la realidad concreta, porque “las exigencias y llamadas del Espíritu resuenan también en los acontecimientos mismos de la historia”, a través de los cuales “la Iglesia puede ser guiada a una comprensión más profunda del inagotable misterio del matrimonio y de la familia”. (AL 31) Por lo tanto, sin escuchar la realidad no es posible comprender las exigencias del presente ni los llamados del Espíritu. El Papa nota que el individualismo exagerado hace difícil hoy la entrega a otra persona de manera generosa (Cfr. AL 33). Esta es una interesante fotografía de la situación: “se teme la soledad, se desea un espacio de protección y de fidelidad, pero al mismo tiempo crece el temor de ser atrapado por una relación que pueda postergar el logro de las aspiraciones personales” (AL 34). La humildad del realismo ayuda a no presentar “un ideal teológico del matrimonio demasiado abstracto, casi artificialmente construido, lejano de la situación concreta y de las posibilidades efectivas de las familias reales” (AL 36). El idealismo aleja de considerar al matrimonio tal cual es, esto es “un camino dinámico de crecimiento y realización”. Por esto no es necesario tampoco creer que las familias se sostienen “solamente insistiendo sobre cuestiones doctrinales, bioéticas y morales, sin motivar la apertura a la gracia” (AL 37). Invitando a una cierta “autocrítica” de una presentación no adecuada de la realidad matrimonial y familiar, el Papa insiste que es necesario dar espacio a la formación de la conciencia de los fieles: “Estamos llamado a formar las conciencias no a pretender sustituirlas” (AL 37). Jesús proponía un ideal exigente pero “no perdía jamás la cercana compasión con las personas más frágiles como la samaritana o la mujer adúltera” (AL 38). Capítulo tercero: “La mirada puesta en Jesús: la vocación de la familia” El tercer capítulo está dedicado a algunos elementos esenciales de la enseñanza de la Iglesia a cerca del matrimonio y la familia. La presencia de este capítulo es importante porque ilustra de manera sintética en 30 párrafos la vocación de la familia según el Evangelio, así como fue entendida por la Iglesia en el tiempo, sobre todo sobre el tema de la indisolubilidad, de la sacramentalidad del matrimonio, de la transmisión de la vida y de la educación de los hijos. Son ampliamente citadas la Gaudium et spes del Vaticano II, la Humanae vitae de Pablo VI, la Familiares consortio de Juan Pablo II. La mirada es amplia e incluye también las “situaciones imperfectas”. Leemos de hecho: “’El discernimiento de la presencia de las ‘semina Verbi’’ en otras culturas (cfr Ad gentes, 11) puede ser aplicado también a la realidad matrimonial y familiar. Fuera del verdadero matrimonio natural también hay elementos positivos presentes en las formas matrimoniales de otras tradiciones religiosas’, aunque tampoco falten las sombras” (AL 77). La reflexión incluye también a las “familias heridas” frente a las cuales el Papa afirma –citando la Relatio finalis del Sínodo 2015- “siempre es necesario recordar un principio general: “Sepan los pastores que, por amor a la verdad, están obligados a discernir bien las situaciones” (Familiares consortio, 84). El grado de responsabilidad no es igual en todos los casos, y puede haber factores que limitan la capacidad de decisión. Por lo tanto, al mismo tiempo que la doctrina debe expresarse con claridad, hay que evitar los juicios que no toman en cuenta la complejidad de las diversas situaciones, y hay que estar atentos al modo en que las personas viven y sufren a causa de su condición” (AL 79). Capítulo cuatro: “El amor en el matrimonio” El cuarto capítulo trata del amor en el matrimonio, y lo ilustra a partir del “himno al amor” de san Pablo en 1 Cor 13,4-7. El capítulo es una verdadera y propia exégesis atenta, puntual, inspirada y poética del texto paulino. Podríamos decir que se trata de una colección de fragmentos de un discurso amoroso que está atento a describir el amor humano en términos absolutamente concretos. Uno se queda impresionado por la capacidad de introspección psicológica que sella esta exégesis. La profundización psicológica entra en el mundo de las emociones de los conyugues –positivas y negativas- y en la dimensión erótica del amor. Se trata de una contribución extremamente rica y preciosa para la vida cristiana de los conyugues, que no tiene hasta ahora parangón en precedentes documentos papales. A su modo este capítulo constituye un tratado dentro del desarrollo más amplio, plenamente consciente de la cotidianidad del amor que es enemiga de todo idealismo: “no hay que arrojar sobre dos personas limitadas –escribe el Pontífice- el tremendo peso de tener que reproducir de manera perfecta la unión que existe entre Cristo y su Iglesia, porque el matrimonio como signo implica “un proceso dinámico, que avanza gradualmente con la progresiva integración de los dones de Dios”” (AL 122). Pero por otra parte el Papa insiste de manera fuerte y decidida sobre el hecho de que “en la naturaleza misma del amor conyugal está la apertura a lo definitivo” (AL 123), propiamente al interior de esa “combinación de alegrías y de fatigas, de tensiones y de reposo, de sufrimientos y de liberación, de satisfacciones y de búsquedas, de fastidios y de placeres” (AL 126) es, precisamente, el matrimonio. El capítulo se concluye con una reflexión muy importante sobre la “transformación del amor” porque “la prolongación de la vida hace que se produzca algo que no era común en otros tiempos: la relación íntima y la pertenencia mutua deben conservarse por cuatro, cinco o seis décadas, y esto se convierte en una necesidad de volver a elegirse una y otra vez” (AL 163). El aspecto físico cambia y la atracción amorosa no disminuye pero cambia: el deseo sexual con el tiempo se puede transformar en deseo de intimidad y “complicidad”. “No podemos prometernos tener los mismos sentimientos durante toda la vida. En cambio, sí podemos tener un proyecto común estable, comprometernos a amarnos y a vivir unidos hasta que la muerte nos separe, y vivir siempre una rica intimidad” (AL 163). Capitulo quinto: “El amor que se vuelve fecundo” El capítulo quinto esta todo concentrado sobre la fecundidad y la generatividad del amor. Se habla de manera espiritual y psicológicamente profunda del recibir una vida nueva, de la espera propia del embarazo, del amor de madre y de padre. Pero también de la fecundidad ampliada, de la adopción, de la aceptación de la contribución de las familias para promover la “cultura del encuentro”, de la vida de la familia en sentido amplio, con la presencia de los tíos, primos, parientes de parientes, amigos. Amoris laetitia no toma en consideración la familia “mononuclear”, porque es bien consciente de la familia como amplia red de relaciones. La misma mística del sacramento del matrimonio tiene un profundo carácter social (cfr. AL 186). Y al interno de esta dimensión el Papa subraya en particular tanto el rol específico de la relación entre jóvenes y ancianos, como la relación entre hermanos y hermanas como práctica de crecimiento en relación con los otros. Capítulo sexto: “Algunas perspectivas pastorales” En el sexto capítulo el Papa afronta algunas vías pastorales que orientan para construir familias sólidas y fecundas según el plan de Dios. En esta parte la Exhortación hace un largo recurso a las Relaciones conclusivas de los dos Sínodos y a las catequesis del Papa Francisco y de Juan Pablo II. Se confirma que las familias son sujeto y no solamente objeto de evangelización. El Papa señala que “a los ministros ordenados les suele faltar formación adecuada para tratar los complejos problemas actuales de las familias” (AL 202). Si por una parte es necesario mejorar la formación psico-afectiva de los seminaristas e involucrar más a las familias en la formación al ministerio (cfr. AL 203), por otra “puede ser útil (…) también la experiencia de la larga tradición oriental de los sacerdotes casados” (cfr. AL 239). Después el Papa afronta el tema de guiar a los novios en el camino de la preparación al matrimonio, de acompañar a los esposos en los primeros años de vida matrimonial (incluido el tema de la paternidad responsable), pero también en algunas situaciones complejas y en particular en las crisis, sabiendo que “cada crisis esconde una buena noticia que hay que saber escuchar afinando el oído del corazón” (AL 232). Se analizan algunas causas de crisis, entre las cuales una maduración afectiva retrasada (cfr. AL 239). Entre otras cosas se habla también del acompañamiento de las personas abandonadas, separadas y divorciadas y se subraya la importancia de la reciente reforma de los procedimientos para el reconocimiento de los casos de nulidad matrimonial. Se pone de relieve el sufrimiento de los hijos en las situaciones de conflicto y se concluye: “El divorcio es un mal, y es muy preocupante el crecimiento del número de divorcios. Por eso, sin duda, nuestra tarea pastoral más importante con respecto a las familias, es fortalecer el amor y ayudar a sanar las heridas, de manera que podamos prevenir el avance de este drama de nuestra época” (AL 246). Se tocan después las situaciones de matrimonios mixtos y de aquellos con disparidad de culto, y las situaciones de las familias que tienen en su interior personas con tendencia homosexual, confirmando el respeto en relación a ellos y el rechazo de toda injusta discriminación y de toda forma de agresión o violencia. Pastoralmente preciosa es la parte final del capítulo; “Cuando la muerte planta su aguijón”, sobre el tema de la perdida de las personas queridas y la viudez. Capítulo séptimo: “Reforzar la educación de los hijos” El séptimo capítulo esta todo dedicado a la educación de los hijos: su formación ética, el valor de la sanción como estímulo, el paciente realismo, la educación sexual, la transmisión de la fe, y más en general, la vida familiar como contexto educativo. Es interesante la sabiduría práctica que transparenta en cada párrafo y sobre todo la atención a la gradualidad y a los pequeños pasos “que puedan ser comprendidos, aceptados y valorados” (AL 271). Hay un párrafo particularmente significativo y pedagógicamente fundamental en el cual Francisco afirma claramente que “la obsesión no es educativa, y no se puede tener un control de todas las situaciones por las que podría llegar a pasar un hijo (…) Si un padre está obsesionado por saber dónde está su hijo y por controlar todos sus movimientos, sólo buscará dominar su espacio. De ese modo no lo educará, no lo fortalecerá, no lo preparará para enfrentar los desafíos. Lo que interesa sobre todo es generar en el hijo, con mucho amor, procesos de maduración de su libertad, de capacitación, de crecimiento integral, de cultivo de la auténtica autonomía” (AL 261). Notable es la sección dedicada a la educación sexual titulada muy expresivamente: “Si a la educación sexual”. Se sostiene su necesidad y se nos pregunta “si nuestras instituciones educativas han asumido este desafío (…) en una época en que se tiende a banalizar y a empobrecer la sexualidad”. Ella debe realizarse “en el cuadro de una educación al amor, a la recíproca donación” (AL 280). Se pone en guardia de la expresión “sexo seguro”, porque transmite “una actitud negativa hacia la finalidad procreativa natural de la sexualidad, como si un posible hijo fuera un enemigo del cual hay que protegerse. Así se promueve la agresividad narcisista en lugar de la acogida” (AL 283). Capítulo octavo: “Acompañar, discernir e integrar la fragilidad” El capítulo octavo constituye una invitación a la misericordia y al discernimiento pastoral frente a situaciones que no responden plenamente a aquello que el Señor propone. El Papa que escribe usa tres verbos muy importantes: “acompañar, discernir e integrar” que son fundamentales para afrontar situaciones de fragilidad, complejas o irregulares. Entonces el Papa presenta la necesaria gradualidad en la pastoral, la importancia del discernimiento, las normas y circunstancias atenuantes en el discernimiento pastoral y en fin, aquella que él define la “lógica de la misericordia pastoral”. El capítulo octavo es muy delicado. Para leerlo se debe recordar que “a menudo, la tarea de la Iglesia asemeja a la de un hospital de campaña” (AL 291). Aquí el Pontífice asume lo que ha sido fruto de las reflexiones del Sínodo sobre temáticas controvertidas. Se confirma qué es el matrimonio cristiano y se agrega que “otras formas de unión contradicen radicalmente este ideal, pero algunas lo realizan al menos de modo parcial y análogo”. La Iglesia por lo tanto “no deja de valorar los elementos constructivos en aquellas situaciones que no corresponden todavía o ya no corresponden más a su enseñanza sobre el matrimonio” (AL 292). En relación al “discernimiento” acerca de las situaciones “irregulares” el Papa observa que “hay que evitar los juicios que no toman en cuenta la complejidad de las diversas situaciones, y es necesario estar atentos al modo en que las personas viven y sufren a causa de su condición” (AL 296). Y continua: “Se trata de integrar a todos, se debe ayudar a cada uno a encontrar su propia manera de participar en la comunidad eclesial, para que se sienta objeto de una misericordia “inmerecida, incondicional y gratuita”” (AL 297). Todavía: “Los divorciados en nueva unión, por ejemplo, pueden encontrarse en situaciones muy diferentes, que no han de ser catalogadas o encerradas en afirmaciones demasiado rígidas sin dejar lugar a un adecuado discernimiento personal y pastoral” (AL 298). En esta línea, acogiendo las observaciones de muchos Padres sinodales, el Papa afirma que “los bautizados que se han divorciado y se han vuelto a casar civilmente deben ser más integrados en la comunidad cristiana en las diversas formas posibles, evitando cualquier ocasión de escándalo”. “Su participación puede expresarse en diferentes servicios eclesiales (…) Ellos no sólo no tienen que sentirse excomulgados, sino que pueden vivir y madurar como miembros vivos de la Iglesia (…) Esta integración es también necesaria para el cuidado y la educación cristiana de sus hijos, que deben ser considerados los más importantes” (AL 299). Más en general el Papa hace una afirmación extremamente importante para comprender la orientación y el sentido de la Exhortación: “Si se tiene en cuenta la innumerable diversidad de situaciones concretas (…) puede comprenderse que no debería esperarse del Sínodo o de esta Exhortación una nueva normativa general de tipo canónica, aplicable a todos los casos. Sólo cabe un nuevo aliento a un responsable discernimiento personal y pastoral de los casos particulares, que debería reconocer que, puesto que “el grado de responsabilidad no es igual en todos los casos”, las consecuencias o efectos de una norma no necesariamente deben ser siempre las mismas” (AL 300). El Papa desarrolla de modo profundo exigencias y características del camino de acompañamiento y discernimiento en diálogo profundo entre fieles y pastores. A este fin llama a la reflexión de la Iglesia “sobre los condicionamientos y circunstancias atenuantes” en lo que reguarda a la imputabilidad y la responsabilidad de las acciones y, apoyándose en Santo Tomas de Aquino, se detiene sobre la relación entre “las normas y el discernimiento” afirmando: “Es verdad que las normas generales presentan un bien que nunca se debe desatender ni descuidar, pero en su formulación no pueden abarcar absolutamente todas las situaciones particulares. Al mismo tiempo, hay que decir que, precisamente por esa razón, aquello que forma parte de un discernimiento práctico ante una situación particular no puede ser elevado a la categoría de una norma” (AL 304). En la última sección del capítulo: “la lógica de la misericordia pastoral”, Papa Francisco, para evitar equívocos, reafirma con fuerza: “Comprender las situaciones excepcionales nunca implica ocultar la luz del ideal más pleno ni proponer menos que lo que Jesús ofrece al ser humano. Hoy, más importante que una pastoral de los fracasos es el esfuerzo pastoral para consolidar los matrimonios y así prevenir las rupturas” (AL 307). Pero el sentido general del capítulo y del espíritu que el Papa quiere imprimir a la pastoral de la Iglesia está bien resumido en las palabras finales: “Invito a los fieles que están viviendo situaciones complejas, a que se acerquen con confianza a conversar con sus pastores o con laicos que viven entregados al Señor. No siempre encontrarán en ellos una confirmación de sus propias ideas o deseos, pero seguramente recibirán una luz que les permita comprender mejor lo que les sucede y podrán descubrir un camino de maduración personal. E invito a los pastores a escuchar con afecto y serenidad, con el deseo sincero de entrar en el corazón del drama de las personas y de comprender su punto de vista, para ayudarles a vivir mejor y a reconocer su propio lugar en la Iglesia” (AL 312). Sobre la “lógica de la misericordia pastoral” Papa Francisco afirma con fuerza:“A veces nos cuesta mucho dar lugar en la pastoral al amor incondicional de Dios. Ponemos tantas condiciones a la misericordia que la vaciamos de sentido concreto y de significación real, y esa es la peor manera de licuar el Evangelio” (AL 311). Capítulo noveno: “Espiritualidad conyugal y familiar” El noveno capítulo está dedicado a la espiritualidad conyugal y familiar, “hecha de miles de gestos reales y concretos” (AL 315). Con claridad se dice que “quienes tienen hondos deseos espirituales no deben sentir que la familia los aleja del crecimiento en la vida del Espíritu, sino que es un camino que el Señor utiliza para llevarles a las cumbres de la unión mística” (AL 316). Todo, “los momentos de gozo, el descanso o la fiesta, y aun la sexualidad, se experimentan como una participación en la vida plena de su Resurrección” (AL 317). Se habla entonces de la oración a la luz de la Pascua, de la espiritualidad del amor exclusivo y libre en el desafío y el anhelo de envejecer y gastarse juntos, reflejando la fidelidad de Dios (cfr. AL 319). Y, en fin, de la espiritualidad “del cuidado, de la consolación y el estímulo”. “Toda la vida de la familia es un “pastoreo” misericordioso. Cada uno, con cuidado, pinta y escribe en la vida del otro” (AL 322), escribe el Papa. Es una honda “experiencia espiritual contemplar a cada ser querido con los ojos de Dios y reconocer a Cristo en él” (AL 323). En el párrafo conclusivo el Papa afirma: “ninguna familia es una realidad perfecta y confeccionada de una vez para siempre, sino que requiere una progresiva maduración de su capacidad de amar (…). Todos estamos llamados a mantener viva la tensión hacia un más allá de nosotros mismos y de nuestros límites, y cada familia debe vivir en ese estímulo constante. ¡Caminemos familias, sigamos caminando! (…) No desesperemos por nuestros límites, pero tampoco renunciemos a buscar la plenitud de amor y de comunión que se nos ha prometido” (AL 325). La Exhortación apostólica se concluye con una Oración a la Sagrada Familia (AL 325). *** *** *** Como es posible comprender con un rápido examen de sus contenidos, la Exhortación apostólica Amoris laetitia quiere confirmar con fuerza no el “ideal” de la familia, sino su realidad rica y compleja. Hay en sus páginas una mirada abierta, profundamente positiva, que se nutre no de abstracciones o proyecciones ideales, sino de una atención pastoral a la realidad. El documento es una lectura densa de sugerencias espirituales y de sabiduría práctica, útil a cada pareja humana o a personas que desean construir una familia. Se ve sobretodo que es fruto de una experiencia concreta con personas que saben por experiencia qué es la familia y el vivir juntos por muchos años. La Exhortación habla de hecho el lenguaje de la experiencia. *** *** *** |
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